Lully&loix







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○舞踏の達人ルイ14世
dance2当時の宮廷貴族は幼い頃から真剣に踊りを学んでいた。しかも、ルネサンス時代まで は大勢の人々が一緒になって、輪や行列を作って踊っていたが、バロック時代のフランス宮廷では、各々の踊り手が前に出て、複雑なステップを披露しなければならなかった。舞踏の達人であったルイ14世にとってはまさにここが見せ場であったわけである。しかし、彼とて舞台デビューでは緊張した。それが、映画でも描かれている《夜のバ レ》(注1参照)の「昇る太陽」役で本格的に舞台デビューし、絶賛された(注2参照)。フランス舞踏界ではこの頃、実に多くの新しい踊りが次々と誕生した。舞踏教師は踊 りのステップを書き記すための「舞踏譜」を考案したが、非常に複雑な拍子やテンポ、ステップが書き込まれていて、解読されたのは今からわずか20年ほど前だという。
注1:解説では一般的な"バレエ"と記しているが、現在のバレエと分ける為に"バレ"と記す。
注2:ルイ14世は《カサンドルのバレエ》で13歳の時で出演しているが主役は 《夜のバレ》が初めてだった。)

 
 
○一世を風靡したリュリとモリエールのコメディ・バレ
リュリとモリエールの共同制作による喜劇、音楽、踊りを結合させたコメディ・バレ は、10年間にわたって大人気を博した舞台である。最初に上演されたのは、ヴェルサイユ宮殿の庭園をそのまま舞台とした祝宴《魔法の島の悦楽》に含まれていたアンテ ルメード(余興)である。この宴は、3日にわたり、仮装行列や仕掛花火など様々な出し物が行われた。二人の舞台の中でも特に大人気だったのは、本作の中でも国王を侮辱したトルコ人にあてつけて書いたと言っていた、1670年にシャンボール城で初演された《町人貴族》。貴族の真似をする金持ちの町人をモリエールが、トルコ人の僧をリュリが演じて、国王はもちろん、観客の宮廷人たちは涙を流して一世を風靡した。2人の組み合わせでは《強制された結婚》(1664)をはじめとする8作が制作されてい る。dance3ルイ14世は1670年のコメディ・バレ《気前のいい恋人たち》を機に舞台から退くことになる。そしてこの国王の引退を境に、バレ・ド・クールは衰退し、いよいよリュリによってオペラの時代がもたらされたのである。リュリはモリエールとの間が決裂してからは、全く新しい劇音楽を創ろうとした。リュリはオペラの上演独占権を国王 から取得、他の作曲家の追随を許さなかった。
 
 
○リュリの遺した3000の楽曲の中から選ばれた45タイトル

本作品における音楽は、熱情、躍動感そして荒々しさを伴っている。それはまさしく ルイ14世の舞踏楽曲を再現したものに他ならない。すなわち鮮明なリズムを持った音楽であり、太陽王の栄光と力をすべての者に知らしめる意志が際だっているのだ。こ れらの音楽は古楽アンサンブル、ムジカ・アンティクヮ・ケルンを率いるラインハルト・ゲーベルが指揮を担当し、繊細な音楽性を一切損なわずに力強く仕上げた。リュリが書き遺した3000の楽曲の中から45のタイトルを選ぶ作業には一年の歳月を要した。特に選択の基準となったのは、それぞれの楽曲の持つメロディだった。
 
 
○バレエの歴史に占めるルイ14世とリュリの軌跡
dance4中世はキリスト教が文化全体を支配していた。神学が高度に発達し、霊肉二元論が確 立するにつれて、舞踏は良くないとされるようになった。霊は上で、肉は下といわれ、肉体を使う舞踏は、現世への執着と見なされ、教会から締め出された。ルネサンスが イタリアで始まり、15世紀のフィレンツェで、天文学者ガリレオの父も加わっていたカメラータというグループが、ギリシア劇を復興しようとして、オペラを上演した のが、始まりといわれている。イタリア各地で盛大な宴会が催され、バレエはその宴会の出し物として生まれたのである。その後、フィレンツェの大富豪の娘、カトリー ヌ・ド・メディチがフランスのアンリ二世に嫁いだ時、ナイフ、フォークと共に舞踏家たちを連れて行き、フランス宮廷に舞踏を広めた。こうして、17世紀の初め頃か ら18世紀半ばにかけてバロック・バレエはフランス宮廷を中心に栄えた。劇場用ダンス且つ、舞踏会用ダンスであるバロック・ダンスは、バレ・ド・クール、コメディ・バレ、音楽悲劇、オペラ・バレという、大きな発展を遂げた。その背景にはルイ14世の庇護のもと、1661年に王立舞踏アカデミーが、また1672年には王立音楽アカデミー (オペラ座)が設立され、着実に舞台芸術としての確立がなされていった背景があった。ルイ14世時代のバロック・ダンスの隆盛を支えていたのは、作曲家リュリと舞踏 家・振付家のボーシャンである。18世紀に入ると、バレエの舞台は宮廷からパリの劇場へと移動し、職業舞踏家が誕生する。そして、19世紀にシュル・レ・ポワント(爪 先で立って踊ること)の技法がバレリーナ、マリー・タリオーニによって発明され、現在に至っている。
参考文献 「バレエの魔力」鈴木晶著 講談社現代新書刊
 
 
○クラシック・バレエの原型はルイ14世が定めた!!
足には基本的な5つのポジションがある。これはルイ14世の舞踏教師ボーシャンによ って定められたと言われ、クラシック・バレエのポジションの原型ともなっている。ただし、19世紀以降のバレエ・テクニックでは各ポジションのつま先の開きは90°か ら180°まで要求されるようになった。
(足のポジション)
足の位置の表記は右のように行う。線の角度は足の開き具合を表す。
……つま先…くるぶし……かかと
イラストに基きここでは左足のポジションを説明するが、右足においても同様である。
第1ポジション……かかとをつけてつま先を90度ぐらいに開いて立つ。
第2ポジション…・左足を横に出す、両足の中心に重心を置く。
第3ポジション……左足を右足の前、つま先とかかとのほぼ中央あたりに置く。
第4ポジション……・・第3ポジッションの左足を、そのまま少し前へ出して置く。
第5ポジション…・左足のかかとを、右足のつま先につけて置く。

「栄華のバロック・ダンス 舞踏譜に舞曲のルーツを求めて」浜中康子著 音楽の友社刊より転載
 
 
「王は踊る」、別名 フランス的狂気の鏡像
映画「王は踊る」、この息もつかせぬスリリングな2時間は、'偉大なる世紀'17世紀を映し出す格好の映像である。18世紀の格好の’読み物’だった、同じコルビオー 監督の話題作「カストラート」よりも成功していると思う。17世紀の最高の’見せ者’ルイ14世物語ではない。まして、太陽王に捧げるために音楽と演劇をめぐって葛藤したリュリとモリエールという2人の天才談でもない。
タイトルからみれば、この映画の主人公はルイ14世だ、と誰しも思うだろう。しかし、それは勘違い。主人公はトリコロールよろしくその3人である。太陽王。イタリア人でありながらフランス人よりもフランス的なバレエとオペラ(音楽悲劇)を、この国王の政治の仕掛のために書き続けたジャン=バティスト・リュリ。そして才気あふれる喜劇やオペラ・バレエを量産した挙げ句、あえなく失墜したモリエール。しかしこの朋友の合い言葉は、百年後のフランス大革命の自由・平等・博愛の三色旗とはほど遠い、服従・専横・自己愛、そしてそれらを縫い合わせている糸は、’フランス 的狂気’(クープランの舞曲のタイトル)である。
loix_dance17世紀の文人パスカルはこう言っている。「人間が狂気じみているのは必然なので、狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からみれば、やはり狂気じみていることになるのだろう。」フランス人は個人的に付き合う場面にしろ、芸術(といっても私の付き合うのはほぼ 音楽に集中するのだが)にしろ、どこか狂気を孕んでいると思えてならない。この映画を観ている間、この'狂気'という2文字が心の中で蝋燭に映しだされたようにゆらめいていた。ここで描かれている国王の美しい狂気はさこそと思わせるが、立役者リュリの猛々しく、時にはおぞましいまでの狂気は、日頃私たちが接している古典音楽の規範としての、均整・気品あふれるリュリ・サウンドからは想像だにできない。そして舞台上で悶死するモリエールの狂気は、モメント・モーリ(死を忘れるなかれ)を 象徴する髑髏の仮面と相まって鬼気迫る。
音楽担当のMAK[ムジカ・アンティカ・ケルン]率いるラインハルト・ゲーベルがすばらしい演奏を披露する。「カストラート」でいい味を出していた生粋のフランス人、クリストフ・ルセとはまたひと味違う、動的で誇張ある身振りのバロック的な音の所作を作るのが、卓越した照明に抉られる数々のバレエの見せ場に絶妙に調和して いる。
これは17世紀にこと借りた、優れて現代的な、人間とその狂気の姿の鏡像ともなりえている。現代人必見の一作だ。

船山信子(上野学園大学教授)。

 

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