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日本の天才音楽家・滝廉太郎の「憾(うらみ)」―華字メディア

Record China / 2024年3月16日 22時0分

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華字メディアの日本華僑報は8日、「日本の天才音楽家・滝廉太郎の“憾(うらみ)”」と題する手記を掲載した。

華字メディアの日本華僑報は8日、「日本の天才音楽家・滝廉太郎の“憾(うらみ)”」と題する手記を掲載した。

手記は麹町の近くの図書館に立ち寄った後、偶然に滝廉太郎居住地跡を見つけたと回想。「カラオケで彼が作曲した『荒城の月』『お正月』『箱根八里』『花』などを歌ったことがあり、彼は日本人が愛する音楽家だ」と述べた。

そして、案内板に書いてあった情報として「滝廉太郎は1879年生まれで、1894年から1901年までこの付近に住んでいたそうだ」とし、「当時、15歳の滝廉太郎はなぜこの地に転居したのだろうか」と疑問を記した。

その上で、「滝廉太郎は上級武士の家の出身だった。父・吉弘は日出藩の家老で1872年に故郷の大分から上京した。吉弘は明治維新の動乱の中で、大蔵省や内務省で大久保利通、伊藤博文らの下で働き、神奈川、富山、大分などに赴任した」と紹介。「息子である廉太郎は親に付いて引っ越しを繰り返し、ここでは麹町尋常小学校に通ったのだ」と説明した。

また、「滝廉太郎はピアノが上手で音楽の天才とも称された。人とは、良いことで有名になれば少年時代に行ったことがすべて良いことになり、逆に悪名をはせれば少年時代に行ったことがすべて悪いことになるものだ。ともあれ、滝廉太郎はその後、東京芸術大学の前身である東京音楽学校に合格し、ピアノを学んで、卒業後には教師を務めた」と紹介した。

手記は「自分の職に落ち着かない人は往々にして追い求めるものがある」とし、「滝廉太郎は教師という一生の安泰を手にしながら別のものを見ていた。1901年にドイツに渡り、翌年にライプツィヒ音楽院に入学して作曲と音楽理論を学んだ。しかし、人の計らいは天の計らいには及ばない。入学から5カ月後に体調を崩し、その後、肺結核を患った。やむなく帰国し、03年6月29日に大分市の自宅で死去した」と説明した。

そして、「滝廉太郎が最後に遺した曲は『憾』である。彼の死後、結核の感染リスクから多数の楽譜などが焼却処分されたと言われているが、これこそが真の『憾』であろう」と結んだ。(翻訳・編集/北田)

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