【キューティー鈴木・白い青春(9)】1986年8月のジャパン女子プロレスの旗揚げ戦から数大会は満員で順調だったんですけど、数か月後にはどんどんお客さんが減ってしまって。地方だとお客さんが20人くらいで、選手の方が多い大会もありました。

 旗揚げから2年たった88年ごろには、給料の支払いが遅れはじめ、半年間「無給」になったこともありました。ある大会後には、事務所の人から「今日は夕飯代がないからグッズを売ってこい!」と言われたこともありましたよ。若手みんなで「夕飯代、稼ぐぞ!」って必死になってパンフレットや写真を売ってましたね。目が合ったお客さんは買うまで帰さないと意気込んでました。

札幌真駒内アイスアリーナ大会でガラガラの客席(86年9月)
札幌真駒内アイスアリーナ大会でガラガラの客席(86年9月)

 それでもお金が足りなくて若手はアルバイトをしてました。昼間の練習が終わって、夕方になるとみんなバタバタ支度して「仕事」に行ってました。私も麻里ちゃん(プラム麻里子)とプロレスラーであることを隠し、昼間は喫茶店、夜は飲食店でアルバイトを始めたんです。試合のある日は2人とも休まないといけないので、結婚式とか、お葬式を理由にしていましたね。

 基本的に「キューティー鈴木」とバレることはなかったんですけど、一度だけプロレス雑誌を読んでいたお客さんから「これ由美ちゃんだよね?」って言われたことがあって…。その時は「似てますか?」とごまかしてました。その後、何か月かしたら事務所の社長が新しくなって「バイトを辞めろ」と言われたので、結局4か月ぐらいで再びプロレスに専念することになりました。

 そんなころに、私のイメージビデオを見たテレビ局から芸能の仕事が来るようになって、プロレスラーとアイドルの二刀流生活が始まりました。イメージビデオはフィリピンのエルニド島で撮影したんですけど、なぜか大仁田厚さんが付いてくることが決まっていたんです。社長に聞いたら「(大仁田は)英語ができるから」と言われたんですけど、現地では1回も英語で話しているところ見なかったような…。

 そのイメージビデオを出してくれた事務所の方が、実はアダルトビデオの会社の社長さん。子供ながらにちょっと不安で、当日まで「私、売られるのかな」と思ってました。でもスタイリストさんとか、メークさんがすごい優しい方で「大丈夫。そんなんじゃないから。なんかあったら言ってあげるから」って。危ないことは何もなく撮影が終わりました。

 もともと芸能の仕事はあまりやりたくなかったんです。何時に帰れるのかわからないし、時間が不規則だったから。当時は試合をした上で芸能の仕事も行って、寝る時間もなかった。口癖は「何時に帰れますか?」でしたね。ただジャパン女子を「有名にしたい」と思ってやってましたね。