本田宗一郎氏(写真=時事通信フォト)

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歴史に名を残した人の発言は、どれも「名言」になる。表現だけを追いかけても意義は薄い。重要なのは事実関係だ。経営者7人の逸話と手紙は、あなたの表現を培う養分になる。

■国鉄元総裁●石田禮助 
「主張は冷静に理知的に行う」

三井物産出身の石田禮助(れいすけ)は、その手腕を買われ、戦時中には交易営団総裁も務めた。戦後になって、このときの退職金の返還を政府の閉鎖機関整理委員会から求められたが、彼はこれを固辞している。

そもそも石田は、のちの国鉄総裁も含め公的な仕事では給与を取るべきではないと考えていた。交易営団の退職金も一旦は断ったが、周囲の説得で渋々受け取った。それがなぜ返還要求を突っぱねたのかといえば、政府との契約上支給されたものを忘れた頃に返せと言うのは筋が通らないと思われたからだ。固辞を伝える手紙では、退職金返還の「結果身を切り血を出すことになるのは、『マーチャント・オブ・ヴェニスのシャイロック』の主張を容認する判決の様なことになると思ひますが、どうでしよう」(城山三郎『「粗にして野だが卑ではない」石田禮助の生涯』文春文庫)と、シェークスピアの戯曲『ベニスの商人』における高利貸しシャイロックの無茶な要求を引き合いに問いただしている。石田はあくまで理知的に自分の主張を押し通したのだ。

■ホンダ創業者●本田宗一郎 
「“はんぱ者”と互いを認める」

本田宗一郎はホンダの社長在職中、「ホンダ社報」を通じて社員にメッセージを送ってきた。1973年の社長退任にあたっては、「はんぱな者どうしでも、お互いに認めあい、補いあって仲よくやっていけば、仕事はやっていけるものだ」と述べている(片山修『本田宗一郎からの手紙』PHP研究所)。足りないもの、できないことは周囲の人に助けてもらえばいいのであり、一方で自分の得意なところは惜しみなく使ってもらうことこそ共同組織のよい点だというのが本田の考えであった。彼自身、根っからの技術屋であり、苦手な営業は副社長の藤沢武夫に任せてきた。

社員に会社の将来を託した温かなメッセージは、自分を支えてくれた人々への本田の感謝の念をうかがわせる。

■ダイエー創業者●中内功 
「相手の言葉を繰り返す」

1995年、ダイエーの社長だった中内功(いさお)は経営学者のドラッカーと書簡を交わすなか、阪神・淡路大震災に遭遇する。中内自身は東京在住だったが、神戸はダイエー創業の原点であるだけに多くの店舗や社員が被害を受けた。ドラッカーは震災当日に中内へ見舞いのファクシミリを送ったのに続き、半月後には亡くなった社員のため弔電を送った。これに対し中内は「あなたは、『物の損失はやがて回復され、忘れることもできます。しかし、チームの仲間、社員を失ったことは、けっして忘れられないことです』と書いて下さいました」と感謝を述べた(ドラッカー、中内『挑戦の時』ダイヤモンド社)。相手の言葉を繰り返したのは、自分に言い聞かせる意味合いもあったのだろう。同じ手紙のなかで彼は復興への決意も誓っている。ドラッカーとの往復書簡から、社会に対し企業が果たすべき役割と精神を学んでいた中内にとって、震災は期せずして実践の機会となったのだ。

■東映元社長●岡田 茂 
「対立の記憶も隠さず述べる」

1985年に亡くなった旺文社創業者・赤尾好夫の葬儀で、東映社長(当時)の岡田茂しげるは弔辞を読み、故人とかつて対立したことにも触れた。

1957年のNET(現・テレビ朝日)設立時に共に出資した東映と旺文社だが、やがて岡田の前任者の大川博と赤尾の不仲からその関係は悪化する。新たに社長となった岡田はその改善のため赤尾に協力を求めるも、はかばかしい返事はもらえなかった。岡田はついに腹をくくると赤尾と面会し、大川との件で謝るべきところは謝るが、それでもなお東映の邪魔を続けるなら「きょうをもって私の最後のご挨拶にする」と告げたという。このときの赤尾の反応を、岡田は弔辞のなかで「あなたはあの例の炯々(けいけい)なる眼差しで私を見つめ、君のことを調べて人柄も判ったから――と、一転して協力を約して下さいました」(『弔辞集』日本経済新聞社)と述懐している。あえて苦い思い出をあげることで、赤尾の懐の広さや、また両者の人間としての信頼の深さも伝わってくる。

■パナソニック創業者●松下幸之助 
「自らの感動をスケッチする」

松下幸之助(当時、松下電器社長)は、1951年の初の訪米中、全社員に向けて手紙を16通送っている。その内容は社内報「松下電器時報」に順次掲載された。そこではたとえば夜の街のあちこちに点灯する広告を「光、光、光で目をうばわれるばかりです」と表現、その感動ぶりがうかがえる。松下はこのほかテレビの普及や女子工員の月給の高さなどアメリカの繁栄ぶりを事細かに伝えた。同時に、「1日も早く日本もそこまでもっていきたい」などと理想を掲げている。彼は手紙で自らの感動を率直に伝え、日本を豊かな国にするという使命感を社員と共有しようとしたのだ。

■クラレ創業者●大原孫三郎 
「旅先から思いを伝える」

大原孫三郎は1923年、倉敷紡績社長として中国を視察旅行中に何度か妻に手紙を送った。大連からの手紙では、自分の後継者に決めていた長男・總一郎(当時14歳)について「内気者でない様にすることを心がけねばならぬ」(城山三郎『わしの眼は10年先が見える』新潮文庫)と説いている。このとき孫三郎は旅順で摘んだスミレの花を同封したという。孫三郎がこのような思いやりを妻に見せたことは日本ではなかったらしい。普段は面と向かって伝えられなかったことを、彼は旅先からの手紙にしたためたのだ。

■三菱化学元社長●篠島秀雄 
「厳しい言葉で愛情を示す」

三菱化成(現・三菱化学)で社長を務めた篠島秀雄は、妻宛てに結婚前も含め生涯を通じて400通もの手紙を送っている。「『信』がなくては何でも彼でも疑えば疑える。ゆっくり落着いて、療養第一に心がけること肝要」という手紙を送ったのは1941年、篠島が田辺製薬に専務として入社した直後のことだ。このとき彼は激務から入院していた。前後して妻も体調を崩し、病床で読んだ小説が原因で男性不信に陥って、それを夫との面会時に口にする。先の手紙はそんな妻を見舞ったものだ(中丸美繪『君に書かずにはいられない』白水社)。彼としても手紙を書くことで、心に余裕を取り戻せたのだろう。なお篠島は後年、日本サッカー協会の副会長も務め、競技の普及に尽力している。

(近藤正高=文 時事通信フォト=写真 パナソニック=資料提供)