泉 麻人【東京深聞】宮ノ前のナット・キング・コール『尾久珈琲亭』(荒川区・西尾久)

2024年3月15日 10時00分

宮ノ前のナット・キング・コール『尾久珈琲亭』(荒川区・西尾久)

 前回の店(カフェ ノースライト)を出てから、田端駅前の陸橋(新田端大橋)を向こうの東側に渡って、少し先の東北本線のガードをくぐるとこの辺の町名は田端新町。文士村のあった山手線の内側に対して、こちら側は昭和の初めに開発された、新しい田端の町なのだ。明治通りの「芭里土羅(バリトラ)」という印象的な名前の焼肉屋の所から北へ入っていく道は、スマホのグーグルマップなんかにも「尾久三業通り」と表示されているが、これをずっと進んでいくとそのうち右手に東京電力の田端変電所が見えてくる。

時計台や花壇もあり、広く歩きやすい新田端大橋

 この変電所は歴史が古い。大正時代の地図を見ると、田んぼのなかに「猪苗代水電変電所」と表示されて、送電線が荒川を超えて北方へと続いているが、その名のとおり福島の猪苗代湖の方の水力発電を源にした電力施設だったのだ。ちなみにここよりちょっと三河島寄りの方にある東電の尾久変電所も前身は「鬼怒川水電」といって、その脇の道には「キヌ電通り」というシブい名が付いている。
 大正時代、こういう北方から供給される電源の施設とともに尾久の町の名所となったのが鉱泉をウリにした料亭や旅館で、芸妓屋も加わって三業地に発展する。当時、王子電車の停車場が置かれた現在の都電荒川線・宮ノ前のあたりにかけての界隈なのだが、田端変電所を過ぎて「宮前商店会」の看板が出た商店街を進んだ先にいい感じの喫茶店がある。

ジャズの音色にぴったりのレトロな雰囲気が魅力の店内

 2階建てのモルタルアパートの1階に「尾久珈琲亭」と記した、年季の感じられる板看板が掲げられている。入店したとき、カウンター席には“ご近所さん”の気配漂う熟年の婦人が2人…。いかにも下町の町喫茶ムードだが、流れている曲は昔のジャズ。♪アン~フォーゲッタブル~と、僕にも耳なじみのあるスタンダードナンバーだ。
 「ナット・キング・コールです。先代のオヤジが好きで、このCDばっかり流していたんですよ」

濃厚な味わいが紅茶にもコーヒーにもあうチーズケーキ(500円)

 説明するのは、実質2代目マスターの藤野智久さんで、オヤジというのが店を開いた先代のマスター。昭和60年(1985年)に店をオープンして、80歳を過ぎた昨夏くらいまで夫人と一緒に切り盛りしていたが、体調をくずしてしまったという。黒いキャップに黒マスク、黒シャツ、という黒ずくめ(エプロンは白だが)がサマになった智久さんも52歳になるというが、カウンターの御夫人は中学生の頃から彼をよく知っているようで、「トモちゃん」と子供のように呼んでいるのが微笑ましい。
 そんなトモちゃんが、昨晩残業して焼いたという、自慢のチーズケーキ(ラム酒の効いた大きなプラムが入っている)とダージリンティーをもらったが、美しいティーカップはイギリスの名門磁器メーカー「ロイヤルクラウンダービー」のものだという。この店は、先代マスターが選び集めた銘柄モノのカップで珈琲、紅茶を振る舞う―――というのが開店以来のウリで、カウンターの向こうの棚には様々なカップが陳列されている。

重厚感のあるロイヤルクラウンダービー。ダージリンティー(700円)。他に、アッサム、セイロン ウバもある

 来店中、ジリリリン…と鳴っていた店隅の電話が昭和の町喫茶らしい“ピンク色の公衆電話”というのもうれしい。
 BGMのナット・キング・コールが2回か3回目の「Unforgettable(アンフォーゲッタブル)」を歌う頃、店を後にして宮ノ前の方へ進むと、右手は東京女子医大や日医系の病院施設が並んでいるが、左手奥は昔の三業地。スマホのマップに「待合茶屋『満佐喜』跡地」と表示される場所は、昭和11年(1936年)にあの「阿部定事件」の現場となった地なのだろうが、そこは一般のマンションが建つだけで、さすがに碑の類はない。その少し先、都電の通りに出る手前に硯運寺(せきうんじ)という曹洞宗の寺があって、門前に尾久三業地のユニークな由緒書きがある。
 「当時の住職が井戸を掘ったところ、ラジウムを含む鉱泉であることが判明し、寺内に温泉を開業したのである」
当時というのは都電の前身、王子電車開通翌年の大正3年(1914年)。
 寺の湯―――というベタな名前だったそうだが、いまはマジメな佇まいの堂宇が存在するだけで周辺に銭湯1つ見受けられないのがちょっと寂しい。
◆◆◆

今回訪れた喫茶店

尾久珈琲亭

住所 東京都荒川区西尾久2-10-11
電話 03-3800-5025
営業時間 9:00~17:00
定休日 不定休

※新型コロナウィルスの影響で、掲載したお店や施設の臨時休業および、営業時間などが変更になる場合がございます。事前にご確認ください。
※2024年3月15日時点での情報です。
※料金は原則的に税込み金額表示です。

PROFILE

泉麻人
コラムニスト
写真

1956年東京生まれ。慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストとして活動。東京に関する著作を多く著わす。近著に『黄金の1980年代コラム』(三賢社)『夏の迷い子』(中央公論新社)、『大東京23区散歩』(講談社)、『東京 いつもの喫茶店』(平凡社)、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』(三賢社)、『冗談音楽の怪人・三木鶏郎』(新潮新書)、『東京いつもの喫茶店』(平凡社)、『大東京のらりくらりバス遊覧』(東京新聞)などがある。『大東京のらりくらりバス遊覧』の続編単行本が2021年2月下旬、東京新聞より発売された。


なかむらるみ
イラストレーター
写真

1980年東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学デザイン情報学科卒。著書に『おじさん図鑑』(小学館)、『おじさん追跡日記』(文藝春秋)がある。
https://tsumamu.tumblr.com/

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