ロジャー・フェデラー──テニス界のレジェンドが語る“その後”の挑戦
2022年9月にプロテニスを引退したロジャー・フェデラー。人生の新たな一章を歩み始めた彼が、かつてのライバル、新たな情熱、そして“元”テニスプレーヤーとしてのアイデンティティについて語った。 【写真を見る】ファッションアイコン、ロジャー・フェデラーのフォトシュートをチェック! ビバリーヒルズの丘を上ったところにあるシーツ=ゴールドスタイン邸は、建築家ジョン・ロートナーの設計による名作だ。敷地内にはテニスコート、鯉のいる池があるほか、リビングルームからは春を迎えつつあるロサンゼルスの絶景が見渡せる。コートサイドの常連でもある所有者ジェームズ・ゴールドスタインは、2016年にこの家をロサンゼルス・カウンティ美術館に寄贈すると発表した。しかし家の中には今も、ビル・クリントンやカール・ラガーフェルド、ドレイクといった有名人と一緒に写った彼の写真が並び、リビングルームには使い古された彼のCDコレクションが積まれている。この部屋は、映画『ビッグ・リボウスキ』の撮影に使われたことでも有名だ。ジェフ・ブリッジス演じる“ザ・デュード”がモダンなソファに腰掛け、“ホワイト・ルシアン”の効き目にノックアウトされるシーンだ。今、彼が座っていたところにロジャー・フェデラーが座り、ロサンゼルスの眺めを楽しんでいる。 彼は映画を観ていないが、それでも「大成功だった」らしいのは聞いていると話した。彼がこの場所に馴染みがあるのはそれよりも、あるシャンパン・ブランドのための撮影で訪れたことがあるからだという。実にロジャー・フェデラーらしい答えである。じかに会った彼は思っていたよりも背が高く、目は薄茶色をしていた。現在42歳のフェデラーは、今もプロのテニス選手だったときと同じ気品ある身のこなしをしている。そんな彼もソファから立ち上がったときには、私がしたのと同じうなり声を上げた(フェデラーがプロとして1500以上の試合を競い、20のグランドスラムを達成したテニス選手であるのに対し、私はといえば寝っ転がりながらその試合を見届けてきた人間である。それでも、うなり声だけはまったく同じだったのだ)。「昨日は何ともなかったのですが」と笑いながら、フェデラーは自分の背中を優しく叩いた。 この前の晩、フェデラーはアカデミー賞の授賞式に2度目の出席をしたばかりだった(最初に出席したのは2016年だが、彼は「レオが『レヴェナント: 蘇えりし者』で受賞したとき」と、これまたフェデラーらしい表現で言った)。彼がプロテニスを引退したのは2022年9月、ロンドンで開催されたレーバーカップでの試合を最後にしてのことだった。ただし、プロアスリートとしては珍しいことに、それ以前から彼はスポーツの外の世界にも関心を持っていた。ウィンブルドンからメットガラまで、当時すでにレッドカーペットの常連だった彼は次のように言う。「ホテルとコートの往復、ルームサービス、そしてスポーツ観戦を一日中。そんな選手を何人も知っています」。しかしそれはフェデラーの流儀ではないし、そうだったこともない。彼は社交的な人物であり、好奇心にも溢れている。引退以降、彼は故郷スイスの自宅から妻子とともに東京やタイ、南アフリカなどへ頻繁に旅行をし、デザインの仕事にも挑戦してきた。直近では、彼がカリフォルニアのアイウェアブランド、オリバーピープルズと手がけたサングラスがちょうど先週リリースされたばかりだ。 新たな人生を歩み始めて1年半ほどが経った今、彼は思い出を振り返る段階にありながら、選手時代を支えた気楽さと集中力の絶妙なバランスになお突き動かされているようだ。「テニスだけの狭い視野に収まっているのは物足りませんから」と、フェデラーは言う。「外に出て人と会い、今までと違ったことをやることに興味がそそられます。レッドカーペットやちょっとした談笑なんて、昔は嫌いで仕方ありませんでしたけどね」 ──なぜ嫌いだったのですか。 何て言えばいいかな。「こんなところで何をしているんだろう?」とか「なんでこんなものを着なきゃならないんだ?」といった、ティーンエイジャーのような疑問があったためです。「まったく、ネクタイで息が詰まりそうだ」なんてね。そこで私は、スーツを快適に着るために、もっとスーツを着なければならないと考えました。それで普段から意識的にネクタイを着ける努力をしたんです。ブレザー、ジャケット、あるいはジーンズやカーディガンだろうと、ネクタイを合わせるようにして、そのような服装に慣れようと心がけました。 ──アスリートならではの答えですね。「鍛えればいい」だなんて。 「鍛えればいい」というのが答えです。そういった服装をして快適でいるために、私だったらそのためのトレーニングをします。でも、本当のことなんですよ。たまにしか正装をしないでいると、いざセレモニーに出席しなければならないときに困ったことになります。非常に居心地悪く、緊張してしまいますからね。だから私は、そのための心構えを養わなければならないと思ったのです。 ──引退生活はどうですか。 ほっとしています。わかってもらえるでしょうか。 ──どういう意味でほっとしたのでしょうか。 そりゃ、最後の数年は膝のこともあり厳しかったですからね。終わりが近づいているのが自分でも感じられました。だから、これでおしまいだと言い切って正式に引退したとき、深呼吸をして感じたのは、「わあ、なんていい気分なんだ」という気持ちでした。 ──では、感情としては悲嘆や哀感ではなく、喜びだったのですか? その瞬間は苦しみでした。つらい気持ちになることはわかっていましたから。ロンドンでの引退の瞬間と、そこに至るまでの全てがね。それにもちろん、それから少し経った後にもフラッシュバックに悩まされました。試合のハイライトを見たときや、「あの瞬間どういう気持ちだった?」と人に訊かれたりしたときにはね。彼らがそのハイライトを見せてくるんですよ。「なんてこった、そんなものもう一度見なきゃならないのか?」というのが私の気持ちです。 ──あの夜は泣いてらっしゃいましたね。 ええ、極度に感情的になっていました。それまで常に自分とともにあったものがなくなり、それからも一生なくなったまま、どれだけ取り戻したいと願っても絶対に取り戻せないのですから。もう列車は駅を出発してしまいました。でもそれでいいのです。そうあるべきだと私自身思っています。しかし、だからと言って、問題なく簡単に心の切り替えができるというわけでもありません。 ──最終的に、ご自身が願ったような結末になったとお考えですか。 ええ、間違いなく。むしろそれ以上です。私は試合の瞬間にはすくみ上がっていました。試合が終わると相手と握手を交わして、その後向こうはどこかへといなくなっていきます。マイクを手に取材に応じた後、私はコートに一人。何人かの友人たちがスタンド席にいますが、私が1回戦で負けるか決勝戦で負けるかなど誰も予想できませんから、全員がそこに来ているわけでもありません。あの日が最後だと知っていた人間は、誰一人いないのですから。だから最終的には、ただ「そうか」と結果を受け入れて、スピーチを述べる。それでおしまい、それまでです。そうしているうちにも次のマッチが始まり、ショーは続いていきます。 ──そうして次の組が現れ、ボールを打ち合い始める、と。 大したことではありません。それでもショーは続きます。私がとにかく怖かったのは、コートで一人きりになることでした。私が「この日が最後だ」と世界に向けて言うときは、願わくば団体戦で、親しい人々に囲まれてさえいればいいとだけ思っていました。正直なところ日付は憶えていませんが、あの金曜日の夜、私は自分がプレーするから皆観に来てほしいと言うことができました。レーバーカップの残りの土曜日と日曜日、私はただリラックスして楽しめました。まだチームの一員だった私は、ネットに受け止められたような気分でした。 ──現役時代に引退について考えるようなことはありましたか。 それはもちろん。トレーニングに向かう車の中なんかでふと、「引退後の生活はどんなものだろう?」なんて考えがよぎることはありました。「引退後はどこにいるのだろう?」とか、「どのように引退するのだろう?」とか、「これからどれだけプレーできるだろう?」とかね。人生について、子どもたちについて、将来について考えるようなことがあれば、こういった疑問は自ずと湧いてきます。でも、これはどんな選手だって同じのはずです。引退については、2009年から訊かれてきました。全仏オープンで優勝し、(四大大会14度目の優勝を成し遂げたピート・)サンプラスの記録に並んだときのことです。「ほかに成し遂げたいと思うことは?」などと訊かれるものですから、私は「いい質問ですが、わかりません。プレーするのが好きですし、なるように任せたいと思います」なんて答えるだけでした。 ──これまでの人生、あなたは一つの道を歩んできましたね。プロのテニス選手、それがあなたのアイデンティティでした。それがある日突然、プロのテニス選手ではなくなりました。 ええ、もう違います。引退しましたから。「今は何を?」なんて訊かれても「わかりません」。引退したなんて、不思議な感じです。 ──待てよ、自分はいったい誰なんだ? という瞬間はありませんでしたか。 テニスは私のアイデンティティでしたが、毎日一日中やっていたわけではありません。ほとんどの時間は父親として、夫として、息子として過ごしてきましたからね。テニスをやることは趣味で、やがてそれが仕事になりました。それでも、私は自分を純粋にテニス選手としてだけ見ることはしないようにしてきました。テニスが自分から奪われたとき、あるいは一休みせざるを得なくなったとき、私にはほかにやるべきことがありました。そうした姿勢は、キャリアを通して私の強みだったと思います。もし明日、自分のテニス人生が終わってしまったら──事故か何かでね。よくあることです──それなしで生きていかなければならない、ということはわかっていましたから。 ──現役時代は頭でわかっているつもりでも、ある日からは実際にその人生を生きなければなりません。 引退生活に飛び込むのはとてもストレートで、それほど複雑なことではなかったように感じます。実際、1日に暇な時間は意外とないんです。私が人や友人に囲まれているのが好きな、社交的なタイプだというのにも助けられていると思います。一人で部屋にこもっていることはないですからね。引退後、家に一人でいたことはおそらく2回くらい。子どもたちが学校にいたり、妻が仕事でいなかったりで一人になると、いったい何をしたらいいのかわからなくて落ち着きません。だから、そういった瞬間は避けたいのです。 ──引退後、時間との付き合い方は変わったと感じていますか。 いい質問ですね。そうだな……どう感じているだろう? 1分1秒が、以前よりも大事に感じられるようになりました。年齢のせいもあるのかもしれません。年を取ると、時間が自分から逃げていくような気になりますから。まだやるべきことはいっぱいあるのに、とね。 ──あなたの引退後の活動の一つに、服やシューズ、サングラスなどのデザインがあります。手応えはどうですか。 素晴らしい人たち、素晴らしいアイデアの持ち主たちと仕事をする機会があったとき、自分だけのサングラスを持つことができたらどんなにクールだろうと考え始めました。そして、選べるとしたら誰と組めたらいいだろうともね。オリバーピープルズなんて、どんなにクールだろう? カリフォルニアはスイスからあまりにも遠く離れたところで、まったくの異世界ですから。そしてどのようにアイデアを構想し、それを実現するかも。それにツアーで一年中太陽を追いかけているせいで、人生の80パーセントほどで夏を過ごしてきた私は、もっとサングラスをかけたいと思うようになりました。何がそうさせたのかわかりませんが、本当に楽しいものになると思ったんですよ。 ──実際のデザインにはどのくらい関わっているのでしょうか。 オリバーピープルズとのプロジェクトの場合は、彼らがアイデアをスケッチして、私も自分の意見を持ち込みました。そうしたら、すべてを鍋に入れ、火に掛けて混ぜ合わせます。それと、インスピレーションについてはどうする? テニスに関連付けるか、それともそこからは完全に離れるか? オリバーピープルズはテニスに紐付けるのがいいと考え、異なるサーフェスの色合いに着想を得たカラーリングなどでそれを表現しました。実に素晴らしいアイデアだと思いましたね。結果にはとても満足していて、率直に言って、とてもいい仕上がりだと思っています。 ──ファッションにはずっと興味があったわけではありませんよね? きっかけは何だったのでしょうか。 旅行ですね。3歳上の妻ミルカ(・ヴァヴリネック)はいつもエレガントで、昔から車や腕時計、ファッションに夢中でした。それが彼女の趣味だったのです。また彼女はとても活動的でしたから、それで私も影響されて、美術館に行ったり人と会ったりということに積極的に、そしてより社交的になっていきました。交際を始めたのは私が18歳の頃、2000年のシドニー五輪で初めて会ったときでしたから。それが私にとってのファッションへの入り口だったと思います。いろいろな都市に行くと、ジーンズにランニングスニーカー、それにオーバーサイズのTシャツなんて毎日着られません。それにテニス選手として成功するようになると、今度はレッドカーペットに出るようにもなりました。それにはスーツが必要ですし、毎回同じネクタイをするわけにもいかないんです。 ──あなたは今、自身の選手生活最後の日々についてのドキュメンタリーを、ジョー・サビア、アシフ・カパディアとともにAmazonプライムビデオで製作中です。それをやろうと思ったのはなぜですか。 正直なところ、自分で決めたことではないんです。何て説明したらいいかな。これは私がやりたくなかったことだったんです。本を書くようなものですが、本なんて書きたくありませんでした。自分の物語を書くような心の準備はできていませんでしたから。だから、そういう考えは私にはありませんでした。 しかし選手生命の終わりが近づくなか、レーバーカップが決まると、ある疑問が湧いてきました。自分たちで何かドキュメントしたほうがいいだろうか? 自分自身の物語のため、子どもたちのため、友人たちやコーチ、チームのために? 自分を真正面からではなく背後から捉えたものなら? そうすれば、少なくとも何かが残せるはずでした。私の人生の舞台裏を、我々はこのときまでほとんど記録してきませんでしたから。他人には誰も周りにいてほしくなかったですからね。 だから、彼らがやって来たときにはこう言いました。「我々が撮った映像から、おそらく試合中とその前後を観たいですよね」。すると、ジョーはこう言いました。「私も大量の素晴らしい映像がありますよ。これを世に出さないなんてもったいない。1時間のドキュメンタリーにしたいと思うのですが、どうでしょう?」とね。私は「ええと、そういうつもりではなかったのですが、どうぞ見せてください」と言いました。それは非常にエモーショナルなものでした。 観るのがつらかったため、ミルカとトニー(・ゴッドシック。フェデラーのエージェント)と一緒に観たのですが、なんてこったと打ちのめされてしまいました。そうしてあれよあれよと1時間半の作品として、私の最後の12日間を追ったドキュメンタリーに発展していったのです。先日試写で観たのですが、つらくて6回も泣いてしまいました。 ──泣いたのはなぜですか。 私が先ほど言った「苦しみ」が感じられる瞬間が、とても多くあったのだと思います。終わりが迫っているのが感じられるし、その瞬間も来るのですが、それは美しいものです。でも、それを感情的に経験した私にとっては、つらいものなのです。視聴者はどう観るのでしょうね。おそらく素敵な作品だと思ってくれるでしょうし、多くのアスリートにとっては私がどのようにコートを去ったかを知れるので、いいのではないでしょうか。 ──あなたの言う「苦しみ」というのは、肉体的ではなく精神的なものですよね? ええ、そうです。あくまで精神的、感情的なものです。文字通り身体を貫いて、全身で感じるものなんですよ。「ああ、神様」とね。 ──そのような感覚を味わったことは、それ以前にありましたか。 グランドスラムの試合でいえば、(2021年の)ウィンブルドン選手権での最後の試合で(ホベルト・)ホルカシュにストレート負けしたときの感覚が最も近いですね。第3セットは0-6でした。コートを後にしたときには膝がひどくて、もうまともにプレーすらできない状態でした。そして、これが最後のウィンブルドンかもしれないとも悟りました。「記者会見ではいったい何を訊かれるだろう? 膝のことに違いない」なんて心の準備をしようとしましたが、頭の中では花火が起きているみたいに様々な考えが巡っていました。「なんてこった、自分はたった今ウィンブルドンで負けたんだ。全てを尽くしたのに。これが自分の限界なんだ。でも、ここまでやり遂げたのだから、いいプレーだったじゃないか」なんてね。 まるで幽体離脱したような経験でした。何もかも、自分が考えていたのとは違う方向へ、あるべきではない方向へと転がっていきましたから。第3セットのスコアも、記者会見も、私の抱えていた恐怖や不安といった感情も全て。あれはつらかったですよ。だから、引退したときの気持ちに近いのはそれかもしれません。 ──テニスを恋しいと思いますか。 そうでもありません。実はね。 ──本当ですか。 ええ、よく訊かれますが、恋しくはないんです。本当に。心は落ち着いています。私の膝が、身体が、心がコートに出ることを許さないというのを知っていますから。誰かのプレーを観て、あのくらい打てると思うこともあります。おそらく今なら打てるでしょう。でも、自分はもう燃え尽きたように感じるんです。自分の持てるものは出し尽くしました。それで今は心安らかなのです。 子どもたちとテニスをしに出かけるのは大好きですよ。先日、妻と人生で初めてコートを予約しました。「火曜の3時から4時まで空いてるかな? もしかしたら楽しめるかもしれない」とね。1~2カ月前のことです。子どもたちがレッスンを受けている横で二人でプレーしましたが、実に楽しかったですね。私はテニスが好きでしたが、引退後にテニスコートに戻ったとしたらどんな気持ちだろうといつも考えていました。もう上達する必要がないだなんて。フォアハンドをミスしたっていいし、うまくなったかどうかなんて誰も気にしません。