専門書にチャレンジ

広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学教授。日本リヒャルト・シュトラウス協会常務理事・事務局長。
著書に『楽譜でわかる クラシック音楽の歴史』『もっときわめる!1曲1冊シリーズ ③ ワーグナー:《トリスタンとイゾルデ》』(以上、音楽之友社)、『リヒャルト・シュトラウス 自画像としてのオペラ――《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング)、『帝国のオペラ――《ニーベルングの指環》から《ばらの騎士》まで』(河出書房新社)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社)など。
さらに各種音楽媒体などへの寄稿のほか、曲目解説・ライナーノーツの執筆、オペラ公演・映像の字幕対訳を多数手がけている。
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第54回 シェーンベルクの実像を、優れた筆致と丁寧な研究で識る

 この書評コーナーも気がつけばかなり長い間担当してきたが、これほど短期間に、同じ作曲家にまつわる著作・飜訳が2点続けざまに出版されたことは、ほとんど記憶がない。しかも、それが、だれもが知る有名作曲家でありながら、日本語で読める著作が決して多くなかったアルノルト・シェーンベルクのものとなれば、評者ならずとも驚きはひとしおだろう。

 もちろん、これまでにシェーンベルクについて説かれた良書が日本語でなかったわけではない。近くは石田一志『シェーンベルクの旅路』(春秋社、2012年)という名著があった(もともとは『レコード芸術』誌の連載だった)。シェーンベルク自身の謦咳に触れたければ、シェーンベルク『作曲の基礎技法』(山縣茂太郎、鴫原真一 訳、音楽之友社、1971年)が、長らくその役目を果たしている。本人の評論では、『シェーンベルク音楽論選』(上田昭訳、ちくま学芸文庫、2019年)が、当人の鋭い視点のありようをつぶさに教えてくれる。

 今回、大人気の「作曲家◎人と作品」シリーズに『シェーンベルク』が加わったことは、多少なりとも取っつきにくさを感じさせるこの作曲家の全体像を識るという意味において、本当に慶賀すべきことである。みずからの才能を信じつつも、経済的に苦しんでいた若き日のシェーンベルクが、マーラーやリヒャルト・シュトラウスの経済的・精神的な援助を得て、やがて不屈の意志とともに新しい時代の音楽を切り拓こうとするその歩みは、浅井祐太氏が冷静な中にもドラマティックな胸の高鳴りを感じさせる筆さばきで描ききっている。
 後期ロマン派のただなかからキャリアをスタートさせ、ドイツ音楽の伝統的形式は、調性の枠組みをはずしても成立可能であると信じて突き進むその姿は、ときに憐れを催すほどに不器用であった。そして、多くの人間とぶつかることを厭わぬ、妥協を決して許さぬ強い精神の持ち主であったことが浮き彫りになるだろう。マットゼー事件(反ユダヤ主義者によって避暑地から追い出された事件)を大きく扱うのも、やがて世間との対決姿勢を強め、孤独を深めていくシェーンベルクの姿が、象徴的に描き出されていると感じた故だろう。後半の作品篇においても、主要作品の音楽形式や基礎音列表など、あらゆる情報が簡にして要を得た手際の良さで整理され、同シリーズの中でも群を抜いて優れた出来映えを示している。

 とくに、この若き日のシェーンベルクの赤貧洗うがごとき生活ぶりの実態については、これまで日本語読者にとって多くの情報に溢れていたとは言いがたい。そのような中で、我らが識るような無調から十二音音楽を切り拓いていく求道者的イメージの「シェーンベルク」になる前、若き日の「シェーンベルク」がどのような人物だったのかを識るために、『シェーンベルク書簡集』を日本語でひもとくことができるようになったのも、おなじ時代に興味を持つ研究者のひとりとしてありがたい限りである。すでに英語で編まれていた同書を、ドイツ語原文を参照しながら佐野旭司氏が丁寧に訳し、原著者の注に加えて、数多く丁寧な注をつけてくださったことも、この種の仕事がどれだけ大変かを思い遣るたびに頭の下がる思いである。
 数多くのひととの書簡を時系列に追いかけていくのは、それだけで(自分のような人間にとっては)心躍る体験である。まるで、1900年前後のウィーン、ベルリンの空気を直接吸っているような心持ちにさせてくれる。義兄ツェムリンスキーとの近況のやりとり、作曲が進行する交響詩《ペレアスとメリザンド》や弦楽六重奏曲に興味を示すリヒャルト・シュトラウス、数多くの出版社と契約条件をめぐる虚々実々の駆け引き、こういう一次資料をひもとくことで、我々のもとに遺されている音楽が、より実体を伴ったものとして立ち上がってくることだろう。あまり通読するタイプの本ではないのかもしれないが、悩み、傷つき、自身の信念とともに歩むべき道を少しずつ見出していく若き日のシェーンベルクが、いつのまにか小説の主人公のようにすら見えてくる書簡集の魅力に、より多くの方が気付いてくれることを願わずにはいられない。

 以下は、自分を含む研究者が自戒すべきこととして書き加えておきたい。シェーンベルクは、音楽の世界は過去よりも現在、現在よりも未来がさらによくなり、発展していくと考えた進歩主義思想を強く信奉していた。自身の発明した十二音技法が、ドイツ音楽の今後100年の優位を保証する、という言葉は、もちろん浅井氏の著作にも引用されている。一方で、後世の歴史の語り部となる我々研究者が、その進歩主義を20世紀特有のひとつの思想として客観的に語る視点は、常に持ち合わせねばならない。シュトラウス研究者としての視点からは、シェーンベルクがシュトラウスの歌劇《インテルメッツォ》を高く評価しており、自身の歌劇《今日から明日へ》の成立において大きな影響を受けたことを踏まえれば、著者自身のシュトラウスに対する評価も変わるのでは、と感じたことを申し添えておく。

※この記事は2023年7月に掲載致しました。

📖 今回のコラムで紹介された書籍

 

『作曲の基礎技法』

シェーンベルク 著
山縣茂太郎、鴫原真一訳


 

『シェーンベルク』
(作曲家◎人と作品シリーズ)

浅井佑太 著


 

『シェーンベルク書簡集
 世紀末ウィーンの一断面
 一八九一年~一九〇七年五月』

イーサン・ハイモ、ザビーン・ファイスト 編
佐野旭司 訳


 

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