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零戦設計者、堀越二郎の軌跡

世界一の戦闘機

 1939年4月1日、岐阜県の各務原飛行場で初飛行。堀越は「四月一日がきた。新戦闘機の前途を祝福するかのように空は晴、各務原の地上では風はほとんどなく、陽炎がもえていた…」と回想している。急降下で機体が空中分解し、ベテランパイロットが死亡するなどのトラブルを乗り越え、開発は成功。旋回性能、航続距離、攻撃力に優れた名機が誕生した。

 零戦にとって初めての実戦となったのが、40年9月の中国・重慶上空の戦いだ。13機の零戦部隊は倍以上の敵機を相手に完勝を収める。後にオーストラリアの空で、零戦はスピット・ファイアを圧倒する。バトル・オブ・ブリテンの立役者となった英国の名機も、格闘戦では零戦の敵ではなかった。

 堀越は海軍の計画要求書を一通り読んだ後の印象を次のように書いている。「この要求は世界の技術水準に対して非常に高く、もしこれを満足する戦闘機が本当に近い内にできたら世界一であることは間違いない」。F6Fヘルキャット(米グラマン)という強力なライバルが出現するまでは、零戦は堀越の印象通りの名機だったことは間違いないだろう。

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