ダニエル・カーネマンが2024年3月27日に亡くなった。カーネマンは、1961年に米カリフォルニア大学バークレー校(以下、バークレー)で心理学の博士号を取得した、心理学者および行動経済学者である。なお、バークレーでの作法に従い、本稿において敬称は省略する。02年に実験経済学者であるバーノン・スミスとノーベル経済学賞を共同受賞した。カーネマンの授賞理由は「心理学を経済学に組み入れた貢献、とくに不確実性下での個人の意思決定における貢献」である。

行動経済学の中心地、バークレー

 筆者は2017年にバークレーで開かれた「Celebration of 30 Years of Behavioral Economics at Berkeley(バークレーにおける行動経済学の30周年記念研究会)」という研究会に参加したことがある。これは、情報の非対称性に関する研究の貢献で2001年にノーベル経済学賞を共同受賞したジョージ・アカロフとカーネマンが共同で、1987年に行動経済学(当時はEconomics & Psychologyなど別の名称で呼ばれていたようである)の大学院講義をバークレーで開講したことを記念した研究会である。

 招待者限定の研究会であったため詳細は伏せるが、そこで配布された87年の講義の参考文献一覧を眺めた際、行動経済学のみならず経済学、心理学、および他の社会科学に今もって多大な影響を与えている論文が(カーネマン自身の論文も含め)数多く取り上げられていることに感嘆したことを今も覚えている。

 なおカーネマンと長年にわたり数多くの共同研究に携わったエイモス・トヴェルスキーは96年に亡くなっているが、もし当時存命であれば2002年にノーベル経済学賞を共同受賞していたであろう。

 経済学におけるカーネマンとトヴェルスキーの足跡については、マイケル・ルイス著『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋、17年)およびリチャード・セイラー著『行動経済学の逆襲』(早川書房、16年) が詳しい。とくにルイス(17年)は、カーネマンとトヴェルスキー2人の足跡を追った本であり、この2人の研究における道程および友情を知りたい方におすすめする。

 以下では、カーネマンの「不確実性下での個人の意思決定における貢献」の代表である「プロスペクト理論」の経済学への影響とその背景を紹介したい。

最も引用された「プロスペクト理論」

 プロスペクト理論は、恐らく最も有名な行動経済学の理論であろう。プロスペクト理論はカーネマンとトヴェルスキーが1979年に発表した共著論文により提唱され、この論文はEconometrica という経済学における最高峰の1つである英文の学術査読誌に掲載された。

 Changらの論文「Great Expectatrics: Great Papers, Great Journals, Great Econometrics」 (2011年) によると、2人がプロスペクト理論を提唱した論文は、Econometricaに掲載されたすべての論文の中で史上最も引用されている論文だ。心理学者であるカーネマンがノーベル経済学賞を受賞した背景には、このような極めて大きな研究成果があった。

 不確実性下での意思決定の分析一般において、プロスペクト理論の影響は(プロスペクト理論の批判や検証を含め)非常に大きい。現在に至るまでプロスペクト理論は、消費者のリスクへの態度と企業の価格設定、労働者のリスクへの態度と労働供給、家計における保険の選択、そして個人の投資行動をはじめとするファイナンスの各トピックなど、様々な分野で応用されている。

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