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JOG(1021) 神本利夫とハリマオの戦い

 マレーシア半島で出会った二人の日本人が、マレイ人を英国支配から解放するために力を合わせた。


■1.「おれは日本人じゃない」

 1941(昭和16)年2月、二人の男がマレー半島のタイからマレーシアに入ったあたりのジャングルを歩いていた。やがて大きな岩が連なる場所で、一人が隠していた黒いマレー服を出した。

「ハリマオ、いや、谷くん、その囚人服を脱いで、これに着替えてくれ」とその男は日本語で言った。そして「アッサラーム・アライクム・ワ・ラマトゥラーヒ・ワ・バラカートゥ(あなたに神のご加護がありますように)とイスラム社会での共通の挨拶をした。ハリマオと呼ばれた男は、一瞬、怪訝な表情になったが、すぐに流暢な口調で、ムスリムの挨拶を返した。

「谷くん、おれは日本人だが、君に頼みがある」と、その男は日本語で言った。ハリマオは返事をせずに、冷たい視線を返すのみだった。彼が同じことをマレイ語で繰り返すと、「おれは日本人じゃない。日本なんて国は、どこにあるのかも知らない。おれはマレイ人だ」と低い声のマレイ語で答えた。

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 君がどう言おうと、君は日本人だ。君の躰のなかには、日本人の血がながれている。谷くん、間もなくこのマレー半島で戦争が始まる。このマレー半島を、イギリスが支配しているかぎり、ここが戦場になる地理的な条件なんだよ。おれは、このマラヤをマレイ人に戻したいと思っている。そのために君の力を貸してくれないか。
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「ムシのいい話だな」とハリマオの瞳に怒りの炎が浮かんだ。

■2.マレーの虎

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 仮にだ、おれが日本人だとしても、おれは日本という国から何ひとつ借りはない。いや、借りどころか、おれの妹が華僑のギャングどもに殺された時、このマラヤやシンガポールの日本人たちが、どんな態度だったか、あの時のおれのくやしさが、おまえさんには、わからんだろう。日本人どもは、おれの妹が殺されたことを「あきらめろ」と、ぬかしたんだぞ。
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 ハリマオ、こと谷豊は明治44(1911)年、福岡で生まれた。豊が2歳の時、両親と共にマレー半島の東岸北部に移住した。昭和6(1931)年、20歳になった豊は帰国して、徴兵検査を受けるが、身長がわずかに足りずに落ちた。その後、豊はしばらく日本で働いていた。

 翌年、マレーの華僑たちが反日暴動を起こして、日本人移民を襲い、妹シズコも首を切られ、晒し者にされた。一家は帰国し、母親から事件を聞いた豊は、激怒して単身、マラヤに戻った。

 植民地を統治するイギリスの官憲は、日本人移民を護らず、また犯人は裁判で無罪放免となった。谷は何度も植民地政府に抗議したが相手にされず、そのための復讐として豊かな華僑の財産を襲うようになった。やがてマレイ人の手下を大勢抱えて、ハリマオ(虎)と呼ばれるようになった。

 ハリマオはマラヤ側で多額の賞金を賭けられ、手下と共にタイ側に逃げた。ところが、手下が無銭飲食をしてタイの警察に捕まり、そのわずかな罰金を支払いにいったハリマオも捕まってしまった。そこに、見知らぬ日本人が現れ、ハリマオの保釈金を払って刑務所から出してくれたのだった。

■3.神本利夫

 ハリマオを救った男の名は神本(かもと)利夫。明治38(1905)年、北海道の開拓農民の家に生まれ、長じて拓殖大学でシナ語を学んだ。ちょうど台湾の経済開発で大きな功績を残した後藤新平[a]が学長であり、「積極進取の気概とあらゆる民族から敬慕されるに値する教養と品格を具えた有為な人材の育成」という建学の精神を強調していた。

 また後藤が教授として招いた大川周明から、神本は欧米列強によるアジア侵略の歴史を学んだ。こうして神本はアジアの諸民族を欧米支配から解放させたい、という志を育てていった。

 卒業後、大陸に渡り、満洲国治安部に勤めたが、そこを休職して3年間もシナ・満洲全土で畏敬されていた道教の老師に入門を許され、拳法を学んだ。師からは「世のため、人のため、十分な働きをなせ」と諭された。

 その後、その実力を見抜かれて、陸軍の諜報機関・陸軍中野学校への入学を認められた。ここでは「国と国民のために、捨て石となる覚悟」を持った人間を育てていた。[b]

 こうして神本は、アジア解放の志を拓殖大学、道教、陸軍中野学校で育てられ、技能としてシナ語、拳法、諜報を習得した。まさに後の活躍の準備として、天が仕組んだような前半生であった。

 昭和16(1941)年1月、日本が米英支蘭の対日包囲網に追い詰められるなか、神本はバンコクに派遣された。ハリマオの盗賊団を味方につけて、英軍の後方攪乱をさせよ、という命令だった。神本は巧みなシナ語を使ってシナ人の行商人に扮したり、道教のコネを使ってハリマオの居場所を突き止め、保釈金を払って、刑務所から出所させたのである。

■4.「おれは、日本も日本人も、キライだ」

 しかし、日本と日本人を恨むハリマオを母国のために立ち上がらせることは、一筋縄ではいかなかった。

「谷くん、君はムスリムでマレイ人になりきっているから、マレイ人の虐げられた歴史を知っているだろう」と神本は、話題を変えた。ハリマオが「いや、おれは何も知らない」と答えると、神本は「本当のマレイ人なら、子供でも知っている民族の悲しい歴史を知らないで、よくもマレーのハリマオだなどと、、、」と問い詰めた。

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 もし戦争が始まったら、その戦争は、このマラヤの大地を、マレイ人のものにする戦いの始まりでもあると、おれは考えているんだ。

 今のマレイ人の力では、とてもイギリス軍をこのマレー半島から追い出すことは不可能だが、日本軍の軍事力に、多くのマレイ人が協力してくれるなら、百五十年もマレー半島を支配したイギリス軍と収奪の植民地勢力を、このマレー半島の大地から追い出すことができる、、、
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「おまえさんの話は分かったが、おれは、日本も日本人も、キライだ」とハリマオは言った。日本人は白人の真似をして、マレイ人をこき使い、白人以上に威張ってやがる、日本が戦争に勝ったら、そんなカラ威張りの日本人がたくさん来るだろう、と言う。

 神本も、威張った日本軍将校や日本人を、朝鮮、満洲、蒙古、シナで数多く見ていたので、その点ではハリマオと同感だった。

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 だがな、おれたち二人の目的の第一は、イギリス軍をマラヤとシンガポールから追い出すことだ。そのために莫迦(ばか)な日本人が威張っても、おれは眸(ひとみ)をつむって我慢するつもりだが、おれと同じに、あんたも我慢してくれんか。
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「うむ、、、じゃ、、、こうしよう。おれは日本も日本人もキライだが、おれはあんたが気にいったから、あんたに協力しよう」と、ようやくハリマオは神本の頼みを受け入れた。

■5.ジェトラ陣地構築のサボタージュ工作

 米英蘭からの石油輸入を止められた日本は、ジャワの油田を確保することを狙ったが、そのためにはイギリスのアジア侵略の橋頭堡シンガポールを制圧する必要があった。しかし、シンガポールは海上からの攻撃に対しては、難攻不落と考えられていた。したがってマレー半島のジャングル1千キロを南下して、背後から攻めるしかない。

 しかし、英軍はその可能性を塞ぐために、半島の防備を固めつつあった。タイ国境からマレーシアに入る幹線道路上のジェトラという集落で、強固な防御陣地を建設していたのである。鉄条網とコンクリートに護られた半地下の機関銃陣地が連なり、その前面には多数の戦車壕や防壁が設けられていた。英軍は「いかなる攻撃も三ヶ月は防御できる」と宣伝していた。

 神本はハリマオとその手下に案内させて、多数のマレイ人労務者に混じって、自ら工事現場に潜入し、彼らからの情報を総合して、詳細な陣地構築図と周辺の地形図を作成した。

 7月中旬、ハリマオは、工事を遅らせる工作を神本に提案した。マレイ人の労務者たちを扇動してサボタージュをさせる、輸送中のセメントを奪う、各種の工事機械を故障させる、などである。

 12月8日未明、日本軍はマレー半島の東海岸に上陸し、このジェトラ陣地を、11日、12日の二日間で撃破した。3ヶ月どころか、わずか2日で突破できたのは、神本とハリマオらの描いた地図と、さらに陣地構築工事を遅延させた工作のお陰であろう。

 次の要衝、ジェトラの南約100キロのマレー半島西岸ペナン島でも英軍は要塞化を進めていたが、ジェトラ陣地がわずか2日で突破された事で浮き足立ち、16、17日に守備隊を撤退させてしまった。日本軍は19日に同島を無血占領した。

 もし、ジェトラ陣地で日本軍が何週間も足止めを食っていたら、日本の上陸部隊約6万に対し英軍は約10万、補給力も圧倒的に優っていただけに、その間に陣地に十分な増派が可能であり、結局、日本軍のマレー半島攻略自体が失敗に終わっていた可能性が高い。

■6.70日間のマレー半島縦断

 その後、日本軍はマレー半島1000キロを70日間で南下し、翌年2月15日には、シンガポールの英軍を降伏させた。その間のハリマオのグループの活動を、当時、少年メンバーとして参加していたラーマン長老はこう語っている。

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 それにしても、開戦後はたいへんでした。シンガポール陥落までは、眠る時間どころか、ゆっくり食事する暇もないほどの70日間でした。・・・わたしたちハリマオ班の各グループは、敗走する英軍のさらに先へ、背後地へ潜入して、通信の電話線を切ったり、弾薬庫を爆破したり、各種の後方攪乱をしました。

 英軍の後方地や日本軍の占領地で、マレイ人住民を日本軍に協力するように説得することも重要な仕事でした。わたしたちマレイ人がマレイ人を説得するので、大きな効果を得ましたが、説得をたやすく受け入れて、積極的に日本軍に協力した原因のひとつに『ジョョヨボの予言』という伝説の影響がありました。[1, p276]
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「ジョヨヨボの予言」とは土俗信仰の伝承神話で、「北方の黄色い人たちが、いつかこの地にやってきて、悪魔にも等しい白い支配者を追い払い、短期間支配するが、やがて彼らは北に帰り、平和な繁栄の世の中が完成する」というものだった。日本軍こそ「北方の黄色い人たち」だと、人々は信じたのである。

 多くのマレイ人は日本軍を心から歓迎し、バナナの葉に包んだマレイ式焼き飯や大きな駕籠にいれた果物を差し入れたり、若者たちは日本軍の弾薬箱を担ぎ運び、泥道にタイヤをとられたトラックを押し、ジャングルの獣道を先導した。日本軍将兵は最初は驚いたが、マレイ人の心からの協力ぶりに感激した。

 また、英軍の相当部分を構成していたインド兵たちが、日本軍への投降後に、インド独立を目指して日本軍と協力して戦った事も大きかった。これは神本が属していたF機関の工作だった。[c,d]

 わずか70日でマレー半島を縦断して、シンガポールを占領するという日本陸軍緒戦の勝利は、マレイ人とインド人の独立への希望が後押しして成し遂げたものであった。

■7.「たのしい、一年、、、だったよ」

 英軍は敗走につぐ敗走を重ねたが、シンガポールまであと200キロ余のゲマス陣地では激しい防御戦を展開した。ハリマオはここでも戦闘前から英軍の後方に進出して、機関車の転覆、電話線の切断、英軍配下のマレイ人義勇兵への説得工作、と大車輪の働きをした。

 その甲斐もあって、日本軍は多数の死者を出しながらも、4日間でゲマス陣地を打ち破り、英軍を南に追いやった。しかし、その頃、ハリマオは無理がたたって、マラリアに罹り、一人では歩けないほどに衰弱していた。

 神本はハリマオをジョホールバールの野戦病院に入院させた。ジョホールバールはマレー半島最南端で、ジョホール水道の向こうにはシンガポール島が望める。神本はラーマンらとともに、ハリマオを担架に乗せて、サルタン王宮の丘に運び、対岸の灯を見せた。「あれが大英帝国のアジア植民地支配の拠点であるシンガポールだ」と神本は語った。

 その後、シンガポールが占領されると、ハリマオはより良い治療を受けられるよう、そこの病院に移された。しかし、ハリマオの死期は迫っていた。神本は死の二日前に最後の見舞いに行っている。

「たのしい、一年、、、だったよ。ありがとう」と息絶え絶えのなかで、ハリマオは言った。二人が出会ってから、ちょうど1年だった。「オレの方こそ、心から礼を言うよ。楽しい一年だった。ありがとう」と神本は答えた。目を閉じて、苦しそうな息をするハリマオを見ながら、神本はラーマン少年に語った。

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 私たちが楽しかったと言ったのは、マラヤとシンガポールを150年も植民地支配して、搾取のかぎりをしてきたイギリスを叩き出し、アジアの欧米植民地解放戦争の第一戦に参加できて、英軍の降伏を見たことが楽しくうれしいということだよ。[1, p292]
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 この二日後、1942(昭和17)年3月17日、ハリマオは息を引き取った。遺体はラーマンらによって、シンガポールのイスラム墓地に埋葬された。同時に、生前の働きから、日本陸軍の正式な軍属として登記され、谷豊は靖国神社に祀られた。

 神本はその後、ビルマ戦線に転出して、雲南省からのシナ人ゲリラと戦うために、少数民族シャン族の青年数百人を指導したが、その最中にやはりマラリアに感染し、治療のために帰国しようと搭乗した潜水艦が南シナ海で米軍機に撃沈された。享年39歳だった。
(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平
 医学者・後藤新平は「生物学の法則」によって台湾の健全な成長を図った。
【リンク工事中】

b. JOG(833) 国と国民の捨て石になる覚悟 ~ 陸軍中野学校
「地位も名誉も金もいらない。国と国民のために、捨て石となる覚悟」を持った男たちがいた。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201401article_6.html

c. JOG(508) インド独立に賭けた男たち(上)~ シンガポールへ
 誠心誠意、インド投降兵に尽くす国塚少尉の姿に、彼らは共に戦う事を決意した。
【リンク工事中】

d. JOG(509) インド独立に賭けた男たち(下)~ デリーへ
 チャンドラ・ボースとインド国民軍の戦いが、インド国民の自由独立への思いに火を灯した。
【リンク工事中】


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 土生良樹『神本利男とマレーのハリマオ―マレーシアに独立の種をまいた日本人』★★★、展転社、H8
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4886561292/japanontheg01-22/

2. 中野不二男『マレーの虎ハリマオ伝説』★★、文春文庫、H6
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/416727907X/japanontheg01-22/

■おたより

■テレビドラマに憧れた(なごみさん)

“真っ赤な太陽、燃えている、はて無い南の大空に、轟き渡る雄叫びは、正しいものに味方する、ハリマオ!ハリマオ!僕らのハリマオ!……”

小学生の頃、テレビドラマであったのが、結構好きで見ていました。一話一話の内容は覚えてないのですが、悪をくじき、弱いものの味方をする姿に、なにもわからず、憧れてきた自分がいます。

神本さん、ハリマオ、マレーシア独立のために、日本のために、それこそ命がけで戦って来られた物凄い方だということを、初めて知りました。貴重な方だということを初めて知りました。ドラマ以上のドラマ、真実ですね。一言で言ってのけるほど簡単なものではない、壮絶な歩みを二人共なされたことに、深く頭が下がる思いです。

次に靖国神社に詣でるときには、お二人のことも偲びなが、手を合わせて来たいと思います。

■伊勢雅臣より

 テレビ番組『怪傑ハリマオ』は、昭和35(1960)年から翌年にかけて放映され、その主題歌が三橋美智也の歌う「真っ赤な太陽、燃えている・・・」でした。

 テレビや映画でこういう番組に親しんだ後で、史実を学ぶ、という方法は、楽しみながら歴史を学ぶのに良いやり方でしょう。

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