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音楽史・記事編128.チャイコフスキーの創作史

 フランス移民の血を引くチャイコフスキーは、ロシアにおける最初の交響曲を作曲したアントン・ルビンシュテインの指導を受け交響曲作曲家となり、また歌劇、バレエ音楽、協奏曲、室内楽の分野で、ヨーロッパ音楽の様式を取り入れつつロシア民族音楽を融合した名曲を残しています。

〇チャイコフスキーの交響曲
 チャイコフスキーはペテルブルク音楽院では恩師アントン・ルビンシュタインの指導を受け、卒業後には初めての大作として交響曲第1番ト短調「冬の日の幻想」を作曲しています。この作品はベートーヴェンとシューマンの交響曲の影響を受け作曲されたとされますが、グリンカがもたらしたヨーロッパの作曲様式とロシア民族音楽との融合された様式で作曲され、ロシア交響曲作曲史に第1歩を刻む作品となりました。
 しかし、チャイコフスキーが交響曲作曲家としての本領を発揮するのはヨーロッパで初めてロシアの交響曲として評価された1878年の交響曲第4番ヘ短調以降です。チャイコフスキーとブラームスはほぼ同時期に作曲活動をおこなっており、チャイコフスキーはブラームスの作品に影響を受けながらもかなり辛辣にブラームスの作品を批判しています。しかし、1889年チャイコフスキーは自作の交響曲第5番ホ短調を演奏するためにハンブルクを訪問した折にブラームスと出会い、チャイコフスキーはブラームスとともにこの交響曲のハンブルク初演を聴くことになります。ブラームスは「フィナーレを除くすべてが気に入った」と述べ、これに対してチャイコフスキーは「実は私も(フィナーレが)かなり嫌なのだ」と返し、お互いの距離は縮まりともに酒豪の2人はしたたかに飲み明かしたとされます。(1)
 チャイコフスキーは1893年交響曲作曲史に残る名曲となった悲愴交響曲ロ短調の初演をペテルブルクで指揮しますが、その9日後に突然食あたりで死去します。チャイコフスキーの葬儀は国葬で執り行われ、多くの民衆に見送られています。

〇チャイコフスキーと歌劇
 19世紀初頭、ロシアのグリンカはフランス、イタリアのオペラに学びロシア民族音楽を融合した国民オペラを始めています。グリンカは1836年に「イヴァン・スサーニン」を1842年には「ルスランとリュドミーラ」を作曲し、さらにムスルグスキーは1874年に名作「ボリス・ゴドノフ」さらに1886年に「ホヴァーンシチナ」を作曲しています。チャイコフスキーは生涯を通じて、交響曲等の管弦楽曲、またピアノ曲、ピアノ伴奏歌曲を作曲していますが、オペラの分野でも10曲を超える作品を残しています。オペラの題材は中世以降のロシアものですが、「オルレアンの少女」のようにフランスのジャンヌ・ダルクを題材とした作品も残しています。1879年の「エフゲニー・オネーギン」、1890年の「スペードの女王」は現在でも各地の歌劇場の主要な演目となっています。

〇チャイコフスキーとバレエ音楽
 チャイコフスキーはバレエ音楽において最高の傑作を残した作曲家として音楽史にその名を刻んでいます。1876年に作曲した「白鳥の湖」初版は不成功に終わっていますが、3大バレエ音楽の「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」は晩年の5年間のうちに作曲され、チャイコフスキーの没後にはドリーゴのオーケストレーション、プチパの振り付けによる「白鳥の湖」新版が成功を収めています。ロシアにおけるバレエの歴史は古く、バロック期の1700年代初期にはフランスから宮廷バレエが伝わり、1730年代には帝室舞踏学校が設立され、ロマン派期にフランスで近代バレエが始まると、ロシア・バレエ団の振付師ディアギレフの委嘱により新作のバレエがつぎつぎと創作され、ロシアではチャイコフスキー、グラズノフ、プロコフィエフによってバレエ音楽が作曲されて行きます。

【音楽史年表より】
1840年5/7(旧暦4/25)、チャイコフスキー(0)
ピョートル・チャイコフスキー、ロシア帝国中部の鉱山都市ヴォトキンスクに生まれる。父イリヤは45歳の製鉄所所長、同地の名士で100名のコサックの指揮権と農奴10名ほどを持っていた。母アレッサンドラは当時27歳、ペテルブルクのエリザヴェータ貴族女学校でフランス語とドイツ語、歴史やピアノを学んで1829年卒業、魅惑的な瞳を持つ堂々とした女性であった。祖父はフランス移民の末裔にあたる。(2)
1866年秋から冬作曲、チャイコフスキー(26)、交響曲第1番ト短調「冬の日の幻想」Op.13
チャイコフスキーの音楽院卒業後の最初の大作で、自ら付けた副題の「冬の日の幻想」は自然主義的な冬のイメージの音楽化ではなく、当時のロシア芸術に特徴的な冬の旅の主題から連想される熱狂だろう。交響曲第1番~6番と「マンフレッド」の計7曲は、恩師A・ルビンシュテインが容認したベートーヴェンとシューマンのモデル化から出発し、ロシアの古典であるグリンカと民謡への深い愛情ともあいまって独自の世界を創り、ロシア交響曲史を確立した。同年、2つの楽章がペテルブルクにおけるロシア音楽協会の演奏会で演奏される。(2)
1871年2月中旬作曲、チャイコフスキー(30)、弦楽四重奏のためのアンダンテ・カンタービレOp.11
弦楽四重奏曲第1番ニ長調の第2楽章として作曲される。69年夏カメンカで書きとめたウクライナ民謡「ヴァーニャは長椅子に座り」を模倣し、叙情性を伝える。(2)
1875年10/25初演、チャイコフスキー(35)、ピアノ協奏曲第1番変ロ長調Op.23
ボストンにてビューローのピアノで初演される。ビューローは若い指揮者ベンジャミン・ジョンソン・ランゲと楽員にテンポと解釈を長々と語り、本番にこぎつける。(2)
初演は大成功を収め、初演の様子は電報でチャイコフスキーに知らされた。ロシア初演は1週間後に、サンクト・ペテルブルクにおいてロシア人のグスタフ・コスのピアノ独奏、チェコ人の指揮者ナブラヴニークによって行われる。(3)
1878年1/9作曲、チャイコフスキー(37)、交響曲第4番ヘ短調Op.36
イタリアのサンレモで総譜を完成する。フォン・メック夫人の匿名希望を酌み入れて、献辞を「最良の友に」とする。チャイコフスキーはメックに対し、次のように告白する・・・柔和な夢と思い出を除けば、しあわせを阻み、諦めにいたる不幸な宿命と、それを負わされた人間・・・チャイコフスキーはこの交響曲で示導理念「運命」を音楽的に登場させる。冒頭楽章の導入部のファンファーレを「運命、われわれの幸福への追求を実現させないあの不吉な力」と説明し、全体の示導動機に使う。古典的な交響曲のくびきを離れた第4交響曲は彼の個性を示す最初の交響曲、西欧音楽界で認知されたロシア最初の交響曲となった。(2)
1879年3/29(旧暦3/17)初演、チャイコフスキー(38)、歌劇「エフゲニー・オネーギン」Op.24
モスクワのマールイ劇場でモスクワ音楽院の学生により初演される。この公演はモスクワのファンに注目され、作曲者でさえフォン・メックの席をとれなかったという。「エフゲニー・オネーギン」は19世紀後半のロシアと西欧のオペラに対する挑戦であった。ムソルグスキーの「ボリス・ゴドノフ」はロシア最初の傑作となり、「エフゲニー・オネーギン」はロシアで最も愛されるオペラとなり、世界の舞台を席巻した最初のロシア・オペラとなる。(4)(2)
1890年1/15(旧暦1/3)初演、チャイコフスキー(50)、バレエ音楽「眠れる森の美女」Op.66
チャイコフスキーの音楽によるバレエ「眠れる森の美女」が、マリインスキイ劇場でロシア皇帝臨席のもと初演される。指揮はロドリーゴ、振付けはマリウス・プチパによる。作品は劇場総監フセヴォロシスキーに献呈される。マリインスキイ劇場の上演は回を重ね、92年11/30チャイコフスキーの列席で第50回公演を行う。「白鳥の湖」の報酬は800ルーブル、「眠れる森の美女」は5000ルーブルとチャイコフスキーの名声は確実に高まった。(2)

1893年10/28(旧暦10/16)初演、チャイコフスキー(53)、交響曲第6番ロ短調「悲愴」Op.74
ペテルブルクの貴族会館ホールで、チャイコフスキーの指揮で初演される。土曜日の夕方5時にロシア音楽協会演奏会が始まる。超満員の貴族会館ホールは60本のロウソクを持つ8つのシャンデリアがきらめく。客席には著名な音楽人をはじめ、各界の名士がずらりと並ぶ。幕があがってチャイコフスキーが登場、聴衆に目もくれず指揮台へいそぐ。甥のユーリーによれば終楽章の最後のコントラバスの音がしだいに消えてチャイコフスキーが腕をゆっくりおろすと、ホールはかなり長く死のような沈黙におおわれた。頭を下げたままの指揮者がわれに返り、楽団員にお辞儀すると、聴衆はためらいがちに拍手を始め、やがて感動の嵐になったという。休憩でリムスキー=コルサコフはこの交響曲になにかプログラムがあるのかと質問し、作曲者はいまは詳しくは語りたくないと答えた。終演後チャイコフスキーは姪アンナの感想に耳をかたむけ、朝の3時まで飲み明かした。(2)
11/6(旧暦10/25)、チャイコフスキー(53)
ピョートル・チャイコフスキー、ロシア帝国サンクト・ペテルブルクにて、兄ニコライ、弟モデスト、甥ウラジーミルが見守る中、死去する。11/にアレクサンドリンスキー劇場でオストロフスキーの「熱き心」を観て、甥たちとレストランで食事をしたが、ここで飲んだ水がコレラの原因とされる。(2)
11/9(旧暦10/28)、チャイコフスキー(没後)
ロシア皇帝の命により、ペテルブルクのカザン大聖堂においてチャイコフスキーの国葬が執り行われる。(2)
1895年1/27(旧暦1/15)、チャイコフスキー(没後)、バレエ音楽「白鳥の湖」Op.20(新版)
新版として上演され「白鳥の湖」は完全復活する。チャイコフスキーの弟モデストが台本類の改編を行い、ナンバーの一部を短縮、更にピアノ曲集Op.7から3曲を選びマリインスキー劇場の指揮者・作曲家のドリーゴがオーケストレーションを行い、プチパとイヴァノフが振り付けし、上演される。(2)

【参考文献】
1.西原稔著、作曲家・人と作品シリーズ ブラームス(音楽之友社)
2.伊藤恵子著、作曲家・人と作品シリーズ チャイコフスキー(音楽之友社)
3.最新名曲解説全集(音楽之友社)
4.新グローヴ・オペラ事典(白水社)

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