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「サラサーテの盤―内田百閒集成〈4〉」 内田百閒

ちくま文庫  筑摩書房

読みかけの棚から
読みかけポイント:この文庫では「東京日記」のみ


「東京日記」

マカフシギなことを全く普通に書き記しているのが、日本のマジックレアリスムか?
ほとんど書き記している当人は外側からの観察者としての立場に立脚しているが、その二十だけは、ちょっとだけ異界に入り込んでいる。そのたった一箇所のところが「東京日記」全体の最後にはなっていない…そこがかえって恐い…
例えばその四の「一日限定丸ビルのない日」の翌日に、「昨日のあめんぼうはどうなったのだろう…」と、たたずむような大人になれたらいいなあ。
(2009 04/12)

「小川洋子と読む内田百閒アンソロジー」から。


今日は人が死んだ思い出の霊魂話?3編。「雲の脚」、「サラサーテの盤」、「とおぼえ」。この3編は、以前借りたちくま文庫の「内田百閒集成4」収録。
「雲の脚」からは久しぶり?に、編者小川洋子氏のコメントから。

 生ものをもらうと、賞味期限が切れるまでの、つまりは命が果てるまでの、わずかな残り時間の責任を押し付けられたようで、胸が塞ぐ。兎を置いて帰る女の足取りは、さぞかし晴れやかで、飛び跳ねんばかりだったに違いない。
(p142-143)


兎、サラサーテの盤、氷ラムネ、遠吠え…これらは、次の文の小石と同じようになんらかの異界との通り道。それはともかく、この短編を読んで、語り手ではなく、兎を置いて帰った女の帰り道を思い浮かべるとは、さすが作家。

「サラサーテの盤」。サラサーテ自身の演奏の盤だというが、そこには手違いでサラサーテの肉声も収録されている、という。この肉声を死んだ夫(後妻)として返事をしている女と、何かを待っているその娘。

 坐っている頭の上の屋根の棟の天辺で小さな固い音がした。瓦の上を小石が転がっていると思った。ころころと云う音が次第に速くなって廂に近づいた瞬間、はっとして身ぶるいがした。
(p146)


これは冒頭の章から。小石は本当に転がっていたのか。

「とおぼえ」は、語り手と氷屋の中国系親爺との探り入れながらお互いすれ違っている、というような会話が続く。先頃亡くした妻の姿のようなものを見ている親爺が「あんたどこから来た?」と語り手に尋ねる。読者と語り手とは作品冒頭から同じ道を歩いてきたから、語り手に不信感を持つのが遅れるが、作品末尾になるとさすがに疑いの目を向ける。「ところで、あんた誰?」と。
(2020 12/29)

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