クマと大樹


森の奥深くには、一匹のクマが腰を下ろしています。その様子は実に堂々たるものであり、他の動物達からの干渉を全身で拒んでいるようでした。クマはまるで、興味深い本を熱心に読み込むように、自分の世界に没入していました。たとえ森に火が放たれて、辺り一面が焼け野原になったとしても、クマは自身の世界に耽溺することを決してやめないでしょう。クマの思考の深度は計り知れません。

もちろん、クマは実際に本を読んでいるわけではありません。そもそもの話、クマは文字を読むことはできません。よしんば文字が読めたとしても、クマ向けに書かれた本というものはこの世に存在しないのです。 ただ、先のことはわかりません。今後、もしかしたら「わかりました。そういうことでしたら、私がクマ向けの本を作りましょう。文字を解する全てのクマのために、文字をせこせこと書き連ねましょう」という奇特な人が現れるかもしれません。クマは、あらぬ方向を見やりながら、あり得る未来を想像しました。その想像は、クマの心をじわっと優しく包み込みました。

クマが住んでいる森の中は、たくさんの大樹に囲まれています。そのため、昼間でも全体的に薄暗く、場所によっては夜のように真っ暗な場所もあります。森がこのような状態では、たとえクマ向けの本が作られたとしても、それを森の中で読むことができません。クマは「どうしたら森を明るくできるだろうか」と考えましたが、その答えは一つしかありませんでした。大樹を切り倒すのです。森が暗いのは、大樹が太陽の光を遮っているからです。なので、周囲の大樹を切り倒せば、森全体が明るくなります。あれこれと考えるまでもありません。その答えはとても単純なものでした。

しかしながら、答えが単純だからといって、問題がすぐに解決するわけではありません。多くの場合、頭に浮かんだ答えを実行に移すには大変な困難が伴います。それはクマの場合も同じです。クマほどの腕力があれば、大樹を切り倒すことはできます。大樹の数が多いので、その全てを切り倒すのにはかなりの時間がかかります。ですが、やってやれないことではありません。クマには、途中で諦めない力と最後までやり遂げる力が備わっています。この二つの力は、生き抜くために必要な力です。

ただ、クマには、大樹を切り倒すのを逡巡する理由がありました。この森で生まれて、この森で育ったクマにとって、いつも傍にあった大樹というのは、この上なく近しくて、嘘偽りなく親しい存在なのです。クマは、自身の太くてたくましい腕が、目の前の大樹をなぎ倒す光景を想像しました。それは、身悶えするほど苦しく、背筋が冷たくなるような恐ろしい光景でした。クマは「どう足掻いたところで、自分にはそんなことはできっこないのだ」と悟りました。大樹の枝の隙間からは、太陽の木漏れ日が差し込んでいます。クマは、空から降り注ぐ光の筋に向けて、腕をそっとかざしました。


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