歴史にもしも、と言っても仕方が無い。現実に起こってしまったことなのだから。
しかし僕は、時々、もしもあの時、と夢想し、それを楽しむことがある。
2日後の11日は、後のロシア皇帝のニコライ皇太子が、訪日の途中の滋賀県大津で、警官・津田三蔵に切りつけられて負傷した大津事件の130周年に当たる。
◎明治天皇と親しく歓談
1891(明治24)年5月11日、帝政ロシアのニコライ皇太子訪日で、大津事件が起こった。大津事件とニコライ皇太子訪日については、前に2回にわたる日記で述べた(19年5月11日付日記:「帝政ロシアのニコライ皇太子訪日と大津事件(全2回=下);1人の巡査の発作的犯行が青年皇太子の日本観を逆転させ日露戦争へ」、19年5月10日付日記:「帝政ロシアのニコライ皇太子訪日と西郷隆盛(全2回=上);あの西郷が帰ってくる? ニコライ訪日(明治24年)に広く流れて信じられた噂」を参照)。あの時、津田三蔵がニコライを襲わなければ、どうだっただろう、と思考実験を重ねてみた。
あの不幸な事件さえなければ、当時、官民挙げての大歓迎に、訪れた先々で感銘したニコライは、むろん予定どおりに東京に行き、宮中で明治天皇に拝謁しただろう(写真=人力車に乗るニコライ皇太子)。
次期ロシア皇帝が約束されているニコライ皇太子と明治天皇は、親しく歓談し、親睦を深めたに違いない。
そしてニコライは、美しい日本の景色と日本文化への感動数と多くの楽しかった思い出を胸に、ウラジオストクに向かい(写真=ウラジオストクでシベリア鉄道の起工式に臨むニコライ皇太子)、ペテルブルクに帰着したに違いない。そして身の回りには、訪れた先々で買い求めた日本の骨董や焼き物、工芸品に囲まれて、いつも楽しかった思い出に浸っていただろう。
◎事件がなければヨーロッパで最も親日的な政治指導者になった
おそらく皇帝に就任し、ニコライ二世となった暁に、ヨーロッパで最も親日的な指導者になったと思われる。当時のヨーロッパの指導者で、極東の小国の日本を訪れた政治家・王様はいない。
すると、はたして日露戦争は起こっただろうか。
重臣のセルゲイ・ヴィッテ(ポーツマス条約のロシア側全権)も親日的だった。現実に、日露戦争前には、その親日姿勢が災いし、ニコライ二世から遠ざけられ、対日強硬派が周囲を固めていた。
大津事件後に帰国してから、かつての日本への親しみを忘れ、日本を憎悪するようになったニコライ二世は、国務顧問のアレクサンドル・ベゾブラーゾフら対日強硬派の勧めもあり、対日戦争も辞さずの方針で、極東進出を進めた。
1898(明治31)年には、日清戦争で日本が手に入れながら、その後の三国干渉で清国に返還した遼東半島の南端の旅順・大連を租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満州への進出を押し進め、さらに朝鮮への影響力を強めた。
◎無謀な戦争に明治天皇は戦争回避を図る
むろん日本には、対露不信感が高まり、政府内に対露戦争やむなしの機運が高まった。
しかし当時、日本とロシアの間には、経済規模と軍事力で日本1に対しロシア4という圧倒的国力差があった。だから開戦やむなきに至った時も、御前会議で明治天皇は最後まで諦めずに対露交渉を進めるように重臣たちに指示し、戦争回避を模索していた。
だからもし、なのである。もしニコライ二世が若き日の訪日時のままの親日的思考を維持していれば、極東への進出はあったとしても、日本を刺激するほどの露骨な姿勢はとらなかったのではないか。できれば、懐かしい日本との戦争は避けたかったはずだ。
◎明治天皇とニコライ二世のトップ会談が成ったか
いよいよ、となった時、ニコライ二世は重臣たちを押しのけ、明治天皇とのトップ会談を申し出たのではないか、とも想像する。ヨーロッパ・ロシアとウラジオストクをつなぐシベリア鉄道は、完成目前であったから、ニコライ二世が極東まで赴くのは、皇太子時代よりはるかに容易だった。
満州のどこかで明治天皇=ニコライ二世会談が実現していたら、訪日時の思い出話に花が咲き、戦争は回避された可能性は極めて高い(なお大津事件後に、京都にニコライ皇太子の見舞いに訪れた明治天皇は、京都で1回、神戸の「アゾフの記憶」(写真)号艦上で1回、明治天皇と会っている。事件がなければ、当然、東京の宮中で会っていた)。
◎ロシア十月革命はおそらくなかった、北朝鮮ならず者政権も無し
となると、前にも述べたが、12年後の過激派ボルシェヴィキ主導の十月革命は起こらなかったかもしれない。二月革命のような穏健なブルジョワジー主導の立憲君主体制が成立していた蓋然性が高い。
それは、ロシアがやがて西欧的な民主主義体制に移行することを十分に予期させるものだ。それなら、スターリン指示のもとの朝鮮半島の分割もなく、戦争中ソ連軍大尉だった金日成を北朝鮮に送り込み、ならず者政権を樹立させることも当然なかった。中国革命もなかった可能性がある。
世界は、ずいぶんと異なっていたのは間違いない。
◎スターリンというモンスターも生むことなかった
さらに、さらに、である。レーニン、トロツキー、マイア・スピリドーノヴァらのロシア十月革命は、レーニン死後にスターリンの絶対的独裁を招来する。
スターリン自身は、ロシア人ではなくグルジア人(現ジョージア)だったが、精神は完全に大ロシア人で、日露戦争によるロシアの敗北を深く恥辱に思っていた。
そのため、チャンスが到来した太平洋戦争末期、日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州、南樺太、千島に侵攻し、日本から南樺太と千島全島を強奪した。
スターリンは、ニコライ二世が失った南樺太を奪還し、さらに明治初期に日本がロシアとの千島樺太交換条約で合法的に領土にした千島全島も奪い取ったのだ。
これもまた大津事件が影響した歴史の一こまである。
大津事件という一巡査の発作的凶行(背後関係はなかった)が、どんなに世界史を変えてしまったかを思うと、ただ1人の愚行の結果の大きさに慄然とするのである。
昨年の今日の日記:「君には恩師と呼べる教師がいたか? ある大女優の自分史の出てくる数学教師に感銘」