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信仰と音楽の棲み分け:バッハのマタイ受難曲

 おととい(2021年4月4日)、イースター(復活祭)を迎えました。受難節は終わったのです。さて、私は「オフピーク鑑賞」が好きです。前にも書いたかもしれず恐縮ですが、私は、ペンテコステにクリスマスの音楽を聴き、クリスマスに受難の音楽を聴いているという、「オフピーク鑑賞」が好きなのです。きょうは、バッハの「マタイ受難曲」について、書きたいと思います。(もっともヨーロッパの人って、「受難節」と「復活節」って、いっしょですかね?ノルウェイにはイースター前後2週間くらいの「イースター休み」があるって聞いたし、海外の団体が、イースターの前と後とで、バッハのヨハネ受難曲とマタイ受難曲を演奏したのを聴いたこともあります。意外と、いま受難曲を聴くのは、オフピーク鑑賞ではなかったりするのかも。)

 じつは、私のnoteの記事をよくお読みのかたはお気づきかもしれませんが、私は、自分のなかで、「信仰」と「音楽」が、乖離しています。乖離という言葉は不適切でしょうか。「棲み分け」? 私のなかで、「信仰」と「音楽」は、別物なのです。でも、周囲の信仰者のみなさんを見ていますと、信仰と音楽が、しあわせに結びついておられるかたが非常に多いです。よく、「讃美歌○○番は、涙せずに最後まで歌うことが難しいです」とかおっしゃっておられるかたがいらっしゃいます。信仰の延長線上で、ゴスペルなど歌っておられるかたもけっこういらっしゃいます。私に、その純粋さ(?)は、ないのです。(ところで、豆知識を出すのが苦手な私が、また豆知識を出そうとしています。当たり前すぎたり、逆にマニアックすぎて興ざめであったら申し訳ございません。「ゴスペル」というのは英語で、意味は「福音(ふくいん)」「福音書」です。ドイツ語では「エヴァンゲリオン」と言います。いずれも「福音(良い知らせ)」という意味です。けっこう中高の英語の教師が、「ゴスペル」の意味を知らなかったりするものですから…。失礼いたしました。)また、私の教会は、伝統的な「オルガンの教会」ですが、もっと現代的な(?)賛美をする教会(バンドとか)でも、やはり、音楽と信仰がしあわせに結びついているかたが多数です。私は、ひそかに、信仰と音楽が乖離(棲み分け)しています。このnoteのアカウントも、宗教の話と、音楽の話で、わけたほうがいいのではないかというくらい。しかし、そんな私にも、唯一、「信仰」と「音楽」が交わる曲が、世界に1曲だけ、あります。それが、バッハの「マタイ受難曲」なのです。

 ということが書きたくて書いているというより、以下で、最近、あらためてじっくりマタイ受難曲を聴いて、「…これはやはり違うな」と感じたところから、この記事を書いていますので、やはり、私のなかで、信仰と音楽が交わる曲は、1曲もないのかもしれません…。

 受難曲について、おもにキリスト教サイドからお読みのかたのために、少し解説いたしますね。聖書をお読みのかたは、福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと、4種類あることをご存じだと思います。なぜ、バッハは、マタイ受難曲と、ヨハネ受難曲を書いたのに、マルコ受難曲やルカ受難曲はないのか。じつは、バッハは、教会歴にそって、マルコ受難曲も、ルカ受難曲も、書いたのです!ただ、それらの楽譜は、なくなってしまったのです!残されたマタイとヨハネが超名曲であることを考えると、これはなんという損失でしょうか!もったいない!さて、これは本で知ったのですが、ルターの仲間の神学者で、ブーゲンハーゲンという人がいました。このブーゲンハーゲンは、ルターの指示で、「調和福音書」というものを作りました。4つの福音書のミックスバージョンです。ルターもしばしば「調和福音書」で説教したそうです。そして、たとえば調和福音書に基づく作品が、たとえばシュッツの「十字架上の7つの言葉」。(ハイドンの同名の作品もでしょう。)4つの福音書をミックスしたら、十字架上のイエスの言葉は、7つになるからです。この「調和福音書」について知りたかったのですが、どの本にも詳しいことが載っていない。2017年に(宗教改革500年のときでした)、日本語でブーゲンハーゲンの本が出たのですが、そこにも載っていない。私の中で、まだなぞです。ブーゲンハーゲンの「調和福音書」って、どういうもの?全文は、どこで読めますか?

 テレマンのマルコ受難曲という作品があります。バッハと同じように、讃美歌「血潮したたる」が引用されます。この讃美歌も、あまりにバッハのマタイ受難曲で有名であり、バッハの作と思っておられる方もあるかもしれません。おそらく武満徹(たけみつ・とおる)もそう思っていたのか、武満のギター曲「フォリオス」では、一瞬、「血潮したたる」が引用されますが、それはバッハのマタイ受難曲の引用のようです。(これは、「クラシック音楽と讃美歌」という記事で、まとめて書いたことがあります。リンクがはれなくて申し訳ございません。)

 さて、バッハのマタイ受難曲は、フルートが活躍します。私が、オーレル・ニコレというフルーティストが好きなことは、このnoteをよくお読みのかたなら、ご存じのことと思います。長いこと、ニコレの吹くバッハのマタイ受難曲は、あるのかないのかもしりませんでした。しかし、カール・リヒターとニコレは仲が良く、有名な録音では、バッハだけでも、「管弦楽組曲第2番」「ブランデンブルク協奏曲第5番」、7つのフルートソナタ、「音楽のささげ物」、また、たくさんのリヒター指揮のカンタータの録音で、ニコレが参加しているものがあります。だから、受難曲もないはずはないと思っていましたが、長いこと、知りませんでした。以下は、ある、最近、知り合った、詳しいかたが調べてくださって、教えてくださったことです。(ありがとうございます!)リヒター指揮のバッハのマタイ受難曲、1979年録音のフルートは、ニコレです!私はずいぶん回り道をしました。学生時代からこの情報を知りたかったです。25歳のときの発達障害の二次障害たる精神障害でフルートの腕も失ってから20年、45歳で、この情報にたどりつきました…。(この調子だと、ヨハネ受難曲も、ミサ曲ロ短調もありそうですが、そこまで調べていません。ゴールウェイのミサ曲ロ短調はあります。カラヤン指揮ベルリンフィルで。)

 もうひとつ、知りたいことがあり、上記の詳しいかたが、これも調べてくださいました(感謝です!)。ランパルの自伝に、あるときバッハのマタイ受難曲をレコーディングしたそうですが、2番フルートを吹いたラリューとともに、ツボってしまって、何時間も笑いがとまらず、セッションを長時間、中断したというのです(…この話、私、書きましたっけ?見つからないので、noteにははじめて書くと思って、書いていますが、過去に書いた話でしたら、すみません)。ランパルによると、そのときのオーケストラはドイツ人ばかりで、フランス人はわれわれだけであり、ほかのメンバーからどう思われたか、とか、そのときのレコードを耳にすると、いかにも笑いをこらえて吹いているのがわかって、恥ずかしい、と書いていました。これが、どの録音だか、わからなかったのですが、上述の詳しい人が調べてくださいました。フリッツ・ヴェルナーという指揮者による録音が、それです!たしかにドイツのオケと思われ、合唱も声楽のソリストもドイツ人なのでしょう。オーボエがピエール・ピエルロだったりしてフランス人ですが、それもランパルに言わせれば「われわれ」のうちなのでしょう。ピエルロがツボっていたかは知りませんが(たぶんツボっていたのはランパルとラリューだけ)。

 さて、ヴェルナーのマタイ受難曲は、YouTubeにあります。リンクがはれなくてたいへん申し訳ございませんが、YouTubeで「ヴェルナー マタイ」くらいで検索していただければ、すぐに出ます。複数、ヒットしますが、「オペラ対訳プロジェクト」というほうの動画をお選びください。じつに親切な対訳(ドイツ語の原語と、日本語訳)が画面に出て、極めてわかりやすいです。これは、デジタルネイティヴのかたにはわからないことかもしれませんが、私は、おもに「クリスチャンであってクラシック音楽に詳しくない人、これから詳しくなりたい人」に、どれほどバッハのマタイ受難曲を広めようとして苦労してきたか、です。対訳つきのCDを貸すか、日本語字幕つきのDVDを貸すしかなかったのだ!学生時代のある読書会で、柳田邦男『犠牲』を読んだときも、やはり「憐れみたまえ」(が出てくる)を聴きたい人はいたのですが、うまく紹介できませんでした(YouTubeがなかったからね。スマホもなかった)。そのうえ、CDもDVDも、難点がありました。私の持っているCDはガーディナーの旧盤、DVDは、鈴木雅明指揮バッハコレギウムジャパンの、ある年の受難日のライヴ映像をテレビから録画したもの。後者の字幕も、ドイツ語と日本語の対訳ではないし(日本語しか出ない)。なにより、古楽器演奏だということです。あわてて付け加えますが、古楽器演奏を憎んでいるわけではありません。個人的に、私はモダン・ピッチ(A=440Hz)での絶対音感があるため、古楽器演奏は、半音くらい低く聞こえて、気持ち悪いということがあります。それはまあ、お貸しして聴かれるかたは、ほとんどは絶対音感がないでしょうから、かまわないとして、やはり、従来型のバッハではないので、(私個人の感じ方ですが、すっきりしすぎている。あまり感動的でない。いま、たくさんの人を敵に回していることを知っています。しかし、私自身、それらのガーディナーや鈴木雅明になじめない証拠に、これらのCDやDVDを、初心者に、貸したくなかったという事実があります)やはり、初心者におすすめしたくないという気持ちがはたらきます。そこへ行くとこのヴェルナー盤は、いわゆる従来型のバッハであり、安心してひとにもすすめられるという、何拍子もそろったものなのです。フルートのランパルが笑いをこらえて吹いているのも、気になりません(そういうものは、本人だけが気になるものです)。

 さて、そういうわけで、それこそ受難節に、ヴェルナーのバッハのマタイ受難曲を、字幕を見ながら、じっくり見たのですが(ヴェルナーの演奏で、3時間15分(!)かかります。ちょっと長めの映画でも見るつもりでなければ、取り掛かれないでしょう)、いや、たしかにバッハの音楽はすばらしい。しかし、この歌詞の神学(というか)は、明らかにバッハの時代の、ルター派の信仰であって、現代のわれわれに通用するのだろうか…。はなはだ疑問だ…。と思うようになってしまったのです。

 受難曲というものは、その名の通り、イエスの受難を描いたもので、たとえばマタイ受難曲といえば、マタイによる福音書がテキストとなっています。あまり受難曲の歴史とか知りませんので、しかし知ったかぶりをするのもよくないと思い、バッハのマタイ受難曲のみを扱いますね。この曲、マタイ福音書の26章から27章までの、ドイツ語聖書に、忠実に音楽をつけていきますが、なんというかミュージカル仕立ての音楽で、ひんぱんに「挿入曲」(合唱やアリア)が挿入されます。(ここが、ほぼ聖書の言葉だけからなるヘンデルの「メサイア」や、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」と異なる点です。)その、聖書の言葉の部分を見れば、納得できますが、その「挿入曲」込みだと、納得しがたい。なんだか、なんといいますか、感傷的な気がいたしますし、それに、聖書の言葉を歌った直後に、「挿入曲」が、その聖書の言葉の真逆を言う場面が見受けられましたし…。バッハの音楽はすばらしいんですけどね。うーん、やっぱり私にとって、この曲も、「信仰」と「音楽」は別なのか?

 というわけで、長い文章になってしまいましたが、私のなかでは「信仰」と「音楽」が棲み分けている話と、その唯一の例外がバッハのマタイ受難曲だと思って来た話と、しかし、最近、聴きなおしてみて、そうでもないかも?と思うようになった話でした。ところで、それにもかかわらずバッハのマタイ受難曲の価値はまったく下がることなく、以前としておすすめですので、3時間15分に付き合いきれるかたは、ぜひ、ヴェルナー指揮のマタイのYouTubeの歌詞対訳付きをご覧になってみてください。聖書になじんでおられるかたなら、筋はとてもよくわかると思いますし。

 長くなりついでに、最後の余談です。学生時代に、あそびで、マタイ受難曲でもっともフルートの活躍するソプラノのアリアのフルートパートを吹いてみたことがあるのですよ…。ものすごく難しかった!聴いている感じも、譜面づら(楽譜から受ける印象)も、そんなに難しくなさそうなのに、すごく難しい!やっぱりみなさんおっしゃる通り、バッハって難しいのですね。いっぽうで、これと逆の体験をしたのが、サンサーンスの「動物の謝肉祭」の「大きな鳥かご」というフルートの活躍する曲(ものすごく難しそうに聞こえる曲)を、やはりあそびで吹いてみたとき。あらびっくり、初見でもけっこう吹けるし、ちょっと練習すれば、完成しそうではないですか!というわけで、世の中には、「難しそうに聞こえないが、じつはとても難しい曲」と、その逆で、「難しそうに聞こえるが、じつはそれほど難しくない曲」というのがあり、どうも、バッハの「マタイ受難曲」と、サンサーンスの「動物の謝肉祭」は、その両極端のような気がしたものです。余談おしまい。

 長くなりました!ここまでお読みくださり、ありがとうございました!

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